前回述べたように、ソ連から出た大金は、紆余曲折を経て日本陸軍の中枢に渡りました。彼らはこの金がソ連から出たことを知っていたわけですから、ソ連が真剣に日本を社会主義化しようとしていることにも、気づいたはずです。
それにもかかわらず、彼らはこの金を受け取りました。ということは、彼らも日本が社会主義化することが望ましいと考えていたということです。徳川義親侯爵・大川周明・橋本欽五郎・永田鉄山らがソ連のスパイだったと即断する必要はないと思います。彼らは彼らなりに社会主義化すれば日本は良くなる、と考えたのでしょう。
日本は日露戦争に勝っていますから、ソ連は日本の軍事力を非常に恐れていました。ソ連が日本の軍人に金を渡したのは、日本軍の矛先が自分たちではなくアメリカに向かうことをも目的としていたのは、明らかです。ロシア革命後、日本の仮想敵国はソ連でした。
そもそもソ連は日本とアメリカという資本主義国どうしを戦わせようとしていました。コミンテルンは1927年に「二七テーゼ」を採択しましたが、これは日本と英米を戦わせようという内容です。両国が戦って疲弊すれば、そのときこそ革命を起こすチャンスなのです。
ソ連からの金がどの程度効果があったのかははっきりしませんが、現実はソ連のもくろみ通りに進行しました。1941年に「日ソ中立条約」が締結され、日本はソ連に敵対することをやめました。
昭和初期の陸軍には、「皇道派」と「統制派」の二つの派閥があり、抗争していました。対立点の一つはソ連に対する態度です。皇道派はソ連を主敵としていましたが(北進論)、統制派は米英を主敵と考えていました(南進論)。
そして統制派の中心人物が、ソ連からの金を受け取った永田鉄山少将だったのです。東条英機は彼の後輩にあたります。青年将校たちが2・26事件を起こした時、皇道派の幹部たちは青年将校たちに同情的で、彼らに声援を送ったりしました。この反乱が鎮圧された後、皇道派の幹部の態度が問題視され、その勢力は壊滅させられました。統制派が抗争に勝ったわけです。その結果、日本はアメリカとの戦争へ向かっていきました。
日本は大東亜戦争で敗戦直前に、ソ連に和平条約の仲介を頼みました。これに対してソ連は「日ソ中立条約」を破って日本軍を攻撃しました。当時の日本政府が甘かったといえばそれまでですが、それほど日本の軍人たちはソ連と社会主義に親近感を感じていたのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月4日 右翼・左翼という言葉を使うと、現実が分からなくなる
4月16日 アメリカが石油を禁輸したから戦争になった、というのは説明になっていない
4月21日 ソ連の工作機関が、アメリカを戦争に誘導していった
5月5日 金本位制復帰も、日本が社会主義化する大きな要因だった
5月9日 反乱を起こした青年将校は、社会主義者を指導者に仰いでいた
5月21日 日本共産党員も獄中転向し、非マルクス系の社会主義者になった
5月23日 天皇制を認めれば、社会主義を信奉してもOKになった
5月30日 ソ連のスパイの尾崎秀実は、支那事変拡大を煽り立てた
6月13日 憲法が規定する自由主義の原則を、国の役所が否定した
6月18日 軍国主義者や右翼が悪い、というのは説明になっていない
6月23日 昭和初期の日本の経済には、社会主義化するような必然性はなかった
6月27日 日本が社会主義化した大きな原因は、Freedomが輸入品だったこと