財産を失ったから役人にはならない、と是清は決意した
財産を失い衣食のために苦慮せねばならぬ身分となれば、時によれば自分の意志に沿わないことでも、上官の命であればこれを聞くことを余儀なくされぬとも限らない。このような境遇の下で官途につくことはよろしくない、と是清は考えました
財産を失い衣食のために苦慮せねばならぬ身分となれば、時によれば自分の意志に沿わないことでも、上官の命であればこれを聞くことを余儀なくされぬとも限らない。このような境遇の下で官途につくことはよろしくない、と是清は考えました
是清はペルーと日本との合弁の鉱山会社の日本側代表となって現地に赴きました。ところがこれが詐欺事件で、結局是清はこの事業を中止し、株式会社を解散しました。そして是清は全財産を失いました。彼はペルーに行く前に役所を休職していましたが、今さら戻ることもできず、素浪人になりました。
是清はアメリカに勉強に行ったのですが、本格的に英語を学んだのは帰国後でした。翌年、彼は大学南校(後の東京大学)の教官になりました。アメリカに滞在しさらに1年間日本で英語を勉強しただけの満15歳が英語の先生になれたのですから、当時いかに洋学の人材の層が薄かったかが分かります。
慶応3年(1867年)、仙台藩は12歳の是清をアメリカに留学させることにしました。仙台藩は、ヴァンリードというアメリカ商人に旅費や学費を渡しましたが、ヴァンリードは学費を着服してしまい、下男としてこき使い、食事もろくに与えようとしませんでした。
「仲間を助けるためならば、少しぐらい世間のルールから外れても構わないじゃないか」というのが、Freedom(自由)や誠の考え方です。これをやると、周囲の人たちがほおっておかなくなります。Freedomや誠の教えをまじめに実践する人は少ないので、やれば目立つのです。高橋是清はこれを実践しました。
高橋是清は自伝の中で、「世の人は私を楽観論者だといい、自分自身でも過去を考えてみると、何だかそうらしく思う」と書いています。 是清が3...
是清の子供時代は非常に幸せでした。非嫡出子として生まれ養子にやられても、是清はひがみませんでした。自分が育った環境が普通の人とは違うということを本人も分かっていましたが、それがかえって自分には幸運だった、と思っていたようです。
高橋是清は私生児で、生まれてすぐに養子にされ、実母とは3歳の時に一度遭っただけでした
高橋是清は、子供の時にアメリカで奴隷にされました。また、日露戦争の際に欧米で国債8億円を募集することに成功し、昭和初期の恐慌を収拾して、日本経済を再び成長軌道に乗せたりもしています。
2009年に鳩山由紀夫首相は国連で、「日本は温室効果ガスを25%削減する」と宣言して列席しました。この時多くの日本人は、「日本の経済に対してどれだけの悪影響があるのだろう」と非常に心配しました。他方、鳩山首相を支持する日本人もたくさんいました。彼らは汚れた現世を浄土にしようという目的を高く評価しする一方、経済的に貧しくなることへの恐れを感じなかったのです。