主張

「国家は悪いことをする」という考えは、日本だけでなく欧米にもあります。しかし、欧米と日本とでは、その根本にある考え方がそもそも違います。

欧米の社会は、国家の必要性を認めています。国家がなければ、国民を外敵や自然災害から守れず、莫大な資金を必要とする研究開発などのプロジェクトもできず、社会全体をよくすることができないからです。

ただ、いったん国家を作りその運営を少数の権力者にまかせておくと、権力者はやがて腐敗し悪いことをはじめます。だから「国民が絶えず監視していないと、国家は悪いことをする」と考えるのです。民主主義はこういう発想から生まれました。

一方の日本には、「国家が存在していること自体が悪い」という考え方があります。例えば、政府が防衛力を強化しようとすると、その必要性を検討するより前に「そうなったら、また日本は悪いことをする」と考え、拒絶反応を起こします。

その一方、「日本人は、お互いに助け合わなければならない」という考えもあります。
この考え方がうまく機能して、日本人は一体となって近代国家を作り上げ、富国強兵を実現しました。その結果、アジア諸国の中で唯一国家の独立を維持することができました。

なぜ、19世紀になって日本と近隣諸国の間に大きな差がついてしまったのでしょう。私は、この差は伝統文化の違いから来た、と考えています。

他のアジア諸国には、「国民は、お互いに助け合わなければならない」という考え方が希薄なのです。違う階級の者どうしは無関心だったり、一族だけで結束して赤の他人などどうなってもよい、などと考える者が多いのです。

このように日本には伝統的に、国家に対して二つの相反する考え方があります。

結論を言えば、「国家が存在していること自体が悪い」という発想は仏教から来ています。仏教は出家して肉親や社会から離れ、一人で修行することを理想としています。そこから国家・社会や家族などに執着することは修行の妨げになり、よくないことだと考えます。

一方、「日本人はお互いに助け合わなければならない」という考え方は神道の誠の考え方から来ています。
敗戦後、神道の考え方が批判されたために、神道と仏教の力のバランスが崩れ、「国家が存在していること自体が悪い」という考え方が非常に強くなったのです。

「国家が存在していること自体が悪い」という考え方に対しては、「アメリカ占領軍の洗脳の結果だ」とか「日教組のせいだ」という批判があります。

たしかにそういう側面はあると思いますが、外部からの押しつけだけでこのような考え方が70年以上も強い力を保持できるはずがありません。日本の伝統の中に、このような考え方を受け入れる要素があるのです。

国家が存在していること自体が悪い」と考えている人たちは、自分たちの主張の根拠を憲法が保障する「基本的人権」に置いているかもしれません。しかしもともとは西欧から来たこの言葉を、仏教的な視点から解釈していることに気づいていません。

彼らは日本を弱体化させるためにこのような言動をしているわけではなく、彼らなりに日本をよくしようと思ってやっているのだ、と私は推測しています。

以上のようなことが分かれば、憲法改正など今の日本で起きている問題の本質がはっきりしてくると思います。

また、欧米が重視している「自由」という権利は、日本人が勝手に解釈しているものとはまるで違うということが分かり、今後急激に変化していく国際情勢の変化に適切に対応できるようになります。

このブログでは、「仏教と神道の守備範囲をはっきりさせ双方のバランスを回復させ、誠という考え方を大切にすることで、日本はよくなる」ということを主張していきます。

私の考えはアマゾンの電子書籍『誰も言わなかった日本再生』にまとめていますので、読んでいただければうれしいです。

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