産業が発達するにつれて、「良い商品を適正な価格で売れば他人は喜ぶ。だからこれは、イエス・キリストの教えである隣人愛の行為だ」という考えが欧米で生まれました。そして「良い商品を売るという隣人愛を行うためには、既存のルールを打ち破っても構わない」という自由の解釈が出てきました。これが「経済的自由」です。
儲けを増やすためには、市場を広げる必要があります。そこで、国境・宗教の違い・民族の違いを認めず、世界をグローバル化して一つの市場にすべきだ、と自由主義経済論者は主張しました(自由主義経済)。
グローバル企業が儲けを増やそうとして、工場を賃金の高い先進国から途上国に移しましたため、先進国(特にアメリカ)の中間層が没落し、失業が増え、貧富の差が拡大しました。
文化の違いのないノッペラボーの世界を作ろうとして、伝統文化を大事にする者たちを「極右民族主義者」とレッテルを貼るようになりました。そしてそのような発言を封じるために「言葉狩り(ポリティカル・コレクトネス)」をしたり、些細な発言を「差別的発言だ」として糾弾するようになりました。
グローバル化に対して一般の先進国の国民の不満が積もり、ついに昨年になってその反動がきました。先進国の世論がグローバリズムから民族主義に変わってきたのです(国際主義から民族主義へ、TPPは自由主義経済の進化形)。その象徴ともいえる事件がトランプ大統領の出現です。
欧米社会が自分たちの伝統に回帰していけば、「自分たちは白人であり、キリスト教の伝統を持っている」ということを自覚します。そうなれば、白人でもキリスト教徒でもない日本人を疎外する恐れがでてきます。支那や朝鮮とは仲間になれない日本は、世界の中で孤立してしまうかもしれません。
そこで、「キリスト教の自由や平等という考え方は、日本の神道から生まれた誠や役目という考え方と同じだから、お互いに信頼関係を築くことができる」というメッセージを欧米に向かって発信することが非常に重要になってきます(価値観外交)。
しかしその一方で、キリスト教の自由と神道の誠の違いを日本人が自覚することも必要です(自由と誠の違いを自覚する)。自由は仲間とそうでない者をはっきりと区別しますが、誠は相手を区別しないので、馬鹿を見ることがあります。
日本人が相手を仲間にしてよいか否かを見極めようとしないのは、大乗仏教の考え方に大きく影響を受けているからです。大乗仏教は、本当は人間の個性や能力の違いなどはないと考えます。このように大乗仏教は俗世間から遊離した宗教なので、江戸時代までは仏教の考え方を実社会に持ち込もうとはしませんでした。
ところが特に戦後になって、仏教の自由と平等の考え方で俗世間を判断する傾向が強くなりました。昔のように仏教の考え方を現実社会に持ち込まない、という常識を復活させなければなりません(神道と仏教の住み分け)。