私は昭和25年(1950)に北海道の室蘭市で生まれました。住宅地のはずれにあった我が家のすぐ裏は、山になっていました。母は子供たちに新鮮な牛乳を飲ませようと思い、この山の向こうの牧場まで牛乳を買いに行っていました。しぼりたての乳を入れる一升瓶を持って、母の後についていったことを覚えています。
我が家の畑でとれたトウモロコシを食べながら、家の窓にひじをついて夕焼けを見ていたことも覚えています。真っ赤に染まった雲は神秘的なまでに美しく、今までこれ以上に美しいものを見たことがありません。
私が子供の頃の日本は大量生産による経済成長期で、集団行動がとれる労働者を企業が求めていました。教育もその要望に応えるために、集団行動を重視していました。当時は、個性などを持たず集団行動に反発しない人が良い人だ、と多くの人が考えていました。
その一方で、生活していくには自分を殺して「社畜」に徹しなければならないと、自嘲している人が多くいました。私自身も、没個性をよしとする社会の風潮に不満を抱いていました。
東大を卒業して企業で働き、ヨーロッパ人と接するようになって、確かに彼らはいろいろな面で個性的だと感じました。そして、「どうして日本人は没個性的なのだろう」という学生時代の疑問が再び頭をもたげてきました。ちょうどそのころからキリスト教に興味を抱き、プロテスタントの教会に20年近く通い、キリスト教に対する理解を深めていきました。
ヨーロッパ人が個性的である理由は実に単純です。キリスト教では、神が人間を作ったと考えます。神はそれぞれの人間に、独自の使命とそれを達成するのに必要な能力を授けます。同じ使命と能力を神から授かった人間は他におらず、それぞれが個性的になって当然なのです。
宗教の教義が人間の考え方に決定的な影響力を持っていることに私は気づきました。そして、日本人が没個性的なのは、仏教の影響に違いないと考えました。そこで仏教学の教授(この先生は、今は私立大学の学長をなさっています)に私の考えを話したところ、「君の言うとおりだ。それをきちんと理解するために、わが大学で仏教を勉強してみないか」と言われました。
この先生について仏教を学び、私は修士号を授与されました。
仏教とキリスト教の教義の骨格がわかると、それと比較することで、神道や儒教の教義もわかります。私は夢中になってこれらの宗教の教義を学びました。
この世で生きている人間は、死・病苦・貧困などの不幸を恐れ、これらの不安を取り除くために宗教にすがります。この点ではどの宗教も似たようなものですが、心を平安に導くやりかたが違います。
キリスト教は、「信者はいったん死んでもやがて生き返り、死の恐怖がない幸せな生活ができる」と説きます。
ところが仏教は、「人は必ず死ぬし、財産や名声などもいずれなくなってしまう。だからこういうものに執着する心を捨てなさい。そうすれば心の平安が得られる」と説きます。
命やものに対する執着を捨てるのは非常に難しいので、極楽を想定したり加持祈祷によって願いを叶えようとする方便が考え出されました。しかし、仏教の基本は「執着しない」ということであって、積極的に幸せな生活を求めることではありません。
儒教は「心の平安」などは考えず、「どのようにすればこの世で戦乱や貧困のない社会を実現できるか」と現世での政治・道徳に関心が集中しています。
また、「望ましい人間関係」についても、宗教ごとに説く内容が違います。キリスト教は、たとえ赤の他人でも助け合いなさい、と説きます。この「隣人愛」を特に強調したのがプロテスタントです。プロテスタント化したイギリスは、それまでバラバラだった国民が団結した近代社会に生まれ変わりました。そして産業革命が起き、強大な国家に成長しました。キリスト教の信仰が近代社会を作り上げたのです。
仏教は、ものや人への執着をなくすことで幸せになれるという考えですから、家族と財産を捨てる出家から修行がスタートします。濃厚な人間関係を作ることは修行の妨げとなるのです。このような教えでは、国民を団結させることができません。
儒教は、何よりも親族が団結すること(孝)をもっとも重視します。主君に仕え自分の職責を果たすこと(忠)は、余裕があればやる程度の軽いものです。だから支那の社会は、親族の集団どうしがエゴを出し合って争い、不安定です。
アジア諸国が欧米列強の植民地になり、今でも近代国家を作ることができないのは、国民を団結させる宗教を持たないからです。ただ日本だけが国民を団結させる宗教を持っていたので、アジアで唯一近代国家を作ることができました。
神道の教えは、誰に対しても誠をもって接するというもので、相手が家族であるか他人であるかを問いません。
幕末、日本が欧米の植民地になる危機に直面していました。その時に武士たちは尊王攘夷という神道の信仰によって、わが身を顧みずに明治維新を遂行し近代国家を作り上げました。
宗教を学ぶことで、私は上記のようなことに気がつきました。そして、日本人が誠の大切さをより深く理解できれば日本はもっとよくなる、と考えています。