2月15日から四か月以上にわたって毎日書き続けてきたブログの要約を、作りました。
日本は日本人のものです。憲法上は、外国人の人権を守る義務はありません。外国人地方参政権を認めてはなりません。(パスポート、会員制のクラブ)
民主主義とは、神様のお考えは多数決の意見の中に宿っているという考え方です。ただ多数だから正しいということではありません。明らかに神様の意思と矛盾する意見は、たとえそれが多数の人間の支持を受けたとしても無効になります(ローマ教皇選出会議、学級会議の取り決め)。
「イエス・キリストと同じ正しい心で判断したのであれば、世俗のルールを無視しても良い」というのが、自由という考え方です(ルターは「神の息吹」を重視した、ウソをついても良いときがある、自由という考え方のはじまり、信仰の自由のためなら戦うしかない
いろいろな自由がある)。
自由という考え方を、「イエス・キリストと同じ心を持っていない者には自由を認めない」というように解釈したものが、積極的自由と言われる考え方です(自由の国アメリカは黒人を奴隷にした、白人の責務)。
「良い製品を適正な価格で売ることは、隣人を喜ばす正しい行為である」という視点から、自由を解釈したものが、経済的自由という考え方です(正しい信仰を持った人は金持ちになる、経済的自由)。
自由という言葉は、もともと仏教用語でした。それを明治になってキリスト教の信仰から生まれたFreedomやLibertyという言葉の訳語に使ったのです。
財産や地位・名誉をすべて捨て去り、さらに家族や友人などの人間関係を断ち切って社会から離脱するのが仏教の出家です。出家して他人に配慮する必要が無い状況で「伸び伸びと振る舞う」というのが、仏教の自由の考え方です。
キリスト教の自由と仏教の自由は、「世俗のルールを無視しても良い」と考える点で同じです。しかし、他人とかかわっているか否かという重大な点で、意味が違います(「自由」は仏教用語、仏教は国家や社会をくだらないものと考える、同性婚)。
神道の信仰から生まれた誠という考え方は、キリスト教の信仰から生まれた自由の考え方とよく似ています。FreedomやLibertyという言葉を仏教用語の自由と訳したのは誤訳で、誠と訳すべきでした(誠、「忠臣蔵」は自由の物語、浦島太郎、吉田松陰、脱藩、日本人はなぜまともな国を作ることができたのか)。