脱藩

関ヶ原の合戦に勝って、徳川家は日本の実質的な支配者になりました。

徳川将軍は各大名たちに領地を与えましたが、その交換条件として、大名が将軍に仕えることを要求しました。各大名家の中でも同じで、大名が家来に領地を分け与える代わりに、家来は大名に仕えなければなりません。これが江戸時代のもっとも基本的なルールで、いわば憲法のようなものでした。

京都の朝廷は大名に領地を分けたわけではないので、大名たちには天皇陛下に仕える義務はありませんでした。

江戸時代の中期以降、「天皇陛下が本当は日本で一番偉く、徳川将軍もその家来だ」、と考えることが日本人の常識のようになってきました。しかしそれはあくまで観念的なもので、天皇陛下が実際の政治を行うことなど誰も考えていませんでした。

ところが黒船来航以来の危機の時代になると、幕府を倒し天皇陛下を中心とした統一国家を作って、日本の独立を維持しようとする考え方が出てきました。

尊王討幕派の武士たちにとっては、天皇陛下のみが自分たちの主人であり、天皇陛下に仕えるのが正しいのです。そこで彼らは、幕府に従うだけの自分たちの殿様を見限り脱藩して京都に集結して、倒幕の軍隊を作ろうとしました。

当時、脱藩をするのは重大な犯罪行為でした。しかし志士たちは、「正しいことをするのであれば、社会のルールを無視しても良い」というの考え方から脱藩したのです。

イギリスでは、プロテスタントたちが「自分たちの正しい信仰を守り、多くの人にその教えを知らせて救ってあげるためであれば、王様が定めた法律を無視しても良い」と自由を主張して清教徒革命を起こしました。

このように西欧の「自由」と日本の「誠」は、同じ機能を持っています。

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