憲法に違反することが出来るのは、国家だけ
憲法で国民に言論の自由が保障されていますが、親が反抗する子供に対して、「うるさい、黙れ」と怒鳴っても憲法違反にはなりません。
憲法で国民に言論の自由が保障されていますが、親が反抗する子供に対して、「うるさい、黙れ」と怒鳴っても憲法違反にはなりません。
「権力を監視する」という言葉は、もともと「憲法の役割は国家を監視することだ」という意味で、そこから「権力が憲法違反をすることをマスコミが監視する」ということになりました。それが次第に「憲法」が抜けて、「マスコミが権力を監視する」というようになっていきました。
仏教は、「欲望のままにものを得ようとして凡人が互いに争うから不幸になる。だからどのような理由であれ争うことは悪いことだ」と考えます。国家は修行の足りない凡人が集まって作っているものなので、すぐに争うのです。
仏教はもともとは、失ったら精神的な苦痛を感じる大切なものを自ら進んで捨てて出家し、以後はものに対する執着がなくなるように心の修業を行う宗教で...
敗戦後は、神道の勢力が弱くなって入れ替わりに仏教の力が強くなって、この政策が受け入れやすくなっていました。敗戦によって神道の勢力が弱まり仏教の勢力が増えたことは、統計を見れば確認できます。
自由と平等は憲法で規定された法的権利ですから、現実社会の問題を考える上で最も重視される考え方です。それが仏教の考え方から来ている、と日本人は誤解してしまいました。
現実社会をなんとか良くしようとすることを仏教の教義によって考えるのは、非常におかしいのですが、明治になってこのようなことが現実に起こってきました。即ち、神道と仏教の使い分けの原則が崩れてきたのです。
仏教は世界の三大宗教の一つに数えられていますが、実際の勢力は微弱で、キリスト教の信者数が20億人、イスラム教が16億人に対して、仏教は4億人です。それも日本以外は、東南アジア諸国・チベット・モンゴルなどの弱小国に普及しているだけです。
おしゃか様をはじめとした最初期の僧侶たちは、「失ったら苦を感じる大事なもの」を真剣に避けていました。合理的に考えれば、「配偶者」や「財産」だけでなく、「家」「寝具」「友人」「師弟関係」なども「「失ったら苦を感じる大事なもの」にあたります。今の僧侶に対して我々が抱いているイメージとはまるで違うのです。
35歳で方法を確立してから80歳で亡くなるまで、おしゃか様はものを持たない生活を徹底しました。全裸は人に不快な感情を与えるので、捨てられたぼろ着を縫い合わせて身にまとっていました