FreedomとEqualityの訳語に仏教用語を使ったために、使い分けの伝統が崩れた

神道と仏教の使い分け(神道によって現実社会のことを考え、魂の平安という現実社会から離れた問題は仏教で扱う)が崩れたのは、明治になって西欧から入ってきたFreedom及びEqualityに対して自由・平等という訳語を当てはめたというミスが原因です。このことはすでに何回か、このブログで書いています。

FreedomやEqualityはキリスト教、特にプロテスタントの信仰から生まれた考え方で、宗教改革以後に西欧社会に根付き、国家体制を近代化し産業革命を引き起こした考え方です。欧米社会はこのFreedomとEqualityを法体系の中心的な権利にし、憲法によって国民に保障しました。

明治政府も日本を近代化し富国強兵を行って国家の独立を維持するために、FreedomとEqualityを法的な権利にし、大日本帝国憲法で国民に保障しました。その時にFreedom、Equalityに対してそれぞれ自由、平等と訳しました。

実は自由と平等という訳語は、古くから日本にあった言葉だったのですが、もともとは仏教用語だったのです。Freedomと自由、Equalityと平等には、それぞれ共通する考え方が含まれています。だからこそ、これらの仏教用語が訳語に選ばれたのでしょう。

ところがこれによって二つの問題が生じました。一つは、Freedom及びEqualityはキリスト教の教義から生まれていてキリスト教の発想が染みついています。ところが自由と平等は仏教用語なので仏教の考え方によって成り立っています。キリスト教と仏教は目的と手段が全く違うので、本質的にFreedomと自由、Equalityと平等は違う考え方です。日本人は、FreedomとEqualityの意味を仏教の発想に基づいて考え、誤解してしまったのです。

もう一つの問題は、神道と仏教を使い分けるという日本の伝統が崩れたということです。自由と平等は憲法で規定された法的権利ですから、現実社会の問題を考える上で最も重視される考え方です。それが仏教の考え方から来ている、と日本人は誤解してしまったわけです。

伝統的に日本人は、現実社会のことは神道で、内心の問題は仏教で考えるというように二つの宗教を使い分けていました。その使い分けの伝統を真っ向から否定してしまったのです。

以下はひと続きのシリーズです。

11月19日 キリスト教・神道と仏教は目的が正反対

11月20日 若いときに出家するという習慣は、仏教から始まった

11月21日 おしゃか様の出家生活は、すさまじかった

11月22日 出家は、もともとは家も友人も持たない厳しいもの

11月23日 仏教は世界的に見ると、勢力は弱い

11月24日 今の日本の社会問題の多くは、神道と仏教の使い分け原則が崩れたことに原因がある

11月25日 FreedomとEqualityの訳語に仏教用語を使ったために、使い分けの伝統が崩れた

11月26日 神道と仏教との使い分けが崩れたために、「国家は悪いことをする」という考えが広まった

11月27日 仏教は、無理してものを捨てなくても良い、と教義を次第に甘くしていった

11月28日 仏教は、欲望を抑えきれない凡人が戦争を起こす、と考える

11月29日 権力を監視するのが憲法の役割、という考え方をマスコミは悪用した

11月30日 憲法に違反することが出来るのは、国家だけ

12月1日 欧米には、国家を監視しなければならない、という発想がある

12月2日 欧米人が考えていたのは、「国家は悪いことをする」ではなく、「権力者は悪いことをする」

12月3日 マスコミは、「国家は悪いことをする」と思い込んでいる

12月4日 マスコミが権力を監視することは非合法であり、不要である

12月5日 地下鉄サリン事件やテロ事件によって、テロ等準備罪の必要性が高まった

12月6日 「国家は悪いことをする」と思い込んだ者たちは、テロ等準備罪に反対した

12月7日 「国家は悪いことをする」という発想が「安倍政治を許さない」を生んだ

12月8日 「国家は悪いことをする」と思い込んでいる者も、一種の愛国者

12月9日 刑事事件の被告は、国家権力からいじめられている者

12月10日 支那や朝鮮が行った残虐行為に言及しない

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