アイヌは先住民族ではない

北部を除く北海道全土に本州と同じ縄文遺跡があります。数千年前から三千年前にかけては、本州と北海道は同じ文化圏だったのです。弥生時代には、本州人は水田稲作をするようになりましたが、北海道人は、縄文時代と同じ狩猟生活をしていました。この時から、本州人と北海道人の生活形態が分かれたのです。なお、オホーツク海沿岸の北部北海道には、5世紀ぐらいからアムール川周辺にいたオホーツク系の人たちがやってきました。

13世紀の鎌倉時代になって、シベリアに住んでいたアイヌ人が、北海道北部にやってきました。当時モンゴル人がシベリアを征服していたので、彼らはモンゴルに追い出されたのではないか、と推定されます。

北海道にやってきたアイヌ人は、オホーツク系住民やわれわれ日本人と同系統の縄文人の男子を殲滅し、女子に子供を産ませたらしいのです。現在のアイヌ人は、オホーツク人や縄文人の女性の遺伝子を受け継いでいるのです。詳しい説明は、的場光昭著 『アイヌ民族って本当にいるの?』を参照してください。アイヌは北海道の先住民族などではありません。むしろ後からやってきた侵入者なのです。

函館市にある船霊神社は平安末期の1135年創建で、他にも鎌倉時代に創建された神社が多くあります。奥州藤原氏は北海道を支配していました。本州の和人はアイヌが北海道に攻め込んでくるより百年以上前から北海道に住んでいたのです。

13世紀以後、北海道には、本州から渡ってきた和人とアイヌが混在していました。アイヌは製鉄技術がないし、織物を作る技術もないので、和人と交易をして必要物資を手に入れていました。中国産の物資を樺太など北方ルートで仕入れ和人に売る、ということもしていました。彼らは、日本文化をかなり取り入れています。アイヌ語で神のことを「カムイ」といいますが、これは日本語のカミがなまったものです。

アイヌ人には、和人とは違う民族だという自覚はなく、経済的にも独立していませんでした。和人たちが彼らを「アイヌ」と呼んだだけのことで、アイヌという独自の文化を持った民族があったわけではないのです。

ところが、ここに日本学術会議が割り込んできました。2011年に、日本学術会議の地域研究員会は、「アイヌ政策の在り方と国民的理解」という文書を発表しましたが、その内容が支離滅裂なのです。まず「先住民族の定義は難しい」と書いています。

ところがその一方で、「アイヌ政策の在り方に関する有識者会議」なる団体の報告書がアイヌを先住民族だといっているので、これを引用して、アイヌは先住民族だ、という結論を出しているのです。要するに、日本学術会議は自分たちの科学的見解に反する他の団体の論文をそのまま使って、「アイヌ人は先住民族だ」と断定したのです。そしてこれに基づいて政府に様々な提言をし、それがアイヌ新法につながりました。

学者には社会主義者が多いです。特に日本学術会議の会員がそうです。彼らが信奉する社会主義は大乗仏教社会主義です。大乗仏教社会主義というのは、大乗仏教の発想から出発して社会主義にたどり着いた考え方で、「国家は悪いことをする」というのと「民族や国籍、人種などの違いはない。みんな同じだ」ということを主張しています。

そこで、「明治時代に日本は先住民族であるアイヌの土地を奪い、虐待をした」「平等であるべきアイヌ人を虐待したのだから、それなりの優遇をしなければならない」ということを言いだしたのです。

一方国会議員たちは、国連様からのお達しに素直に従いました。国連様が、「日本にも先住民族がいるはずだ」といってきたので困っていたところ、「アイヌが日本の先住民族だ」というウソを日本学術会議が言ってきたので、これに飛びついたのです。また国会議員の中にも大乗仏教系社会主義者が多くいた、という事情もありました。

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コメント

  1. 石井 より:

    縄文人は祖先であるが、日本人ではないし、大和民族でもない大和民族も明治になって発明あるいは構築された概念であり、日本が多民族国家を意識するための装置である。だからこそ、日本人の定義が天皇を元首として頂く臣民なのだ。このとき、同時に民族としてのアイヌも発見されたのだから、先住民族で間違いありません。縄文人が日本語を話してないのは明らかなので縄文民族というべきなのに言わないのは政治的障壁です。大和民族というフィクションが明らかになるから