信仰の自由のためなら、戦うしかない

スイスのジュネーブの例を見ても分かるように、プロテスタント信者は寝ても覚めても神様のことを考えていました。他のすべてのことよりも信仰が優先したので、これが邪魔されたら戦うしかありません。
17世紀のイギリスの清教徒革命は、プロテスタントがその信仰を守るために起こしたものです。

「自由」という考え方は「信仰の自由」から始まったことからも分かるように、「自由」という名で戦争や革命が起きたときは、キリスト教の要素が多分に含まれています。少なくとも指導者たちは、「自由」という言葉を使って、国民の信仰心を利用しています。

アメリカの「独立宣言」には、「創造主(キリスト教の神)が、国民に自由と平等を与えた」とわざわざ明記しています。

ベトナム戦争は、「自由世界を守るため」に行われました。共産主義という神を否定する勢力が東南アジアまで勢力を伸ばしてきたので、アメリカはキリスト教を守るために戦ったわけです。

20世紀の世の中で宗教が原因で戦争が起きたことに納得しない人は、「アメリカの政・産・軍の複合体が起こした」などと言っていますが、説明が逆です。

ベトナムには産業も資源もなく、そこを植民地にしてもアメリカに何の利益もありません。戦争になればアメリカの庶民は余計な税金を負担し、戦死者も出ます。そういう犠牲を払っても自由を守らなければならないと庶民が思ったから、「政・産・軍の複合体」が戦争をすることができたのです。

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