ルソーは、無神論者を死刑にしろ、と言った

キリスト教から生まれた自由(フリーダム)という考え方は、「イエス・キリストと同じ正しい心で判断した時は、律法、法律やルールを無視しても良い」というものです。以前にもこの考え方を例を挙げて説明しましたが、もう一度説明します。

律法はウソをついてはならないと定めていますが、一方ではウソをつかないと友人をやくざの手から守れないときはどうするかという例題です。そういう時は、イエス・キリストと同じ心になって判断するのです。やむを得ずウソついても良いと結論を出した時、その人は律法に拘束されず、「律法からの自由」を得ます。

こういう考え方は日本人が普段考えている「自由」とは違った考えでむしろ「誠」に近いのですが、ここでは混乱を避けるために、従来通り「自由」という言葉を使います。

「自由」は、プロテスタントが言い出したことですから、「イエス・キリストと同じ正しい信仰」とはプロテスタントの信仰です。ですから、当初は「信仰の自由」はプロテスタントにのみ認められ、カトリックや無神論は認められなかったのです。

啓蒙思想家のジャン・ジャック・ルソーは、「積極的に無神論を広めようとする者は、死刑にしろ」とまで言っています。

その後しだいにその許容範囲が拡大し、今では仏教やイスラム教まで含むようになりました。
日本人は、宗教と名前が付けばどんなものでも認められると考えていますが、こういう考えは欧米のキリスト教社会では通用しません。

トランプ大統領は選挙期間中、イスラム教の排斥を主張しました。これを日本のマスコミは「暴言」と呼んでいましたが、伝統的な「信仰の自由」の主張でもあるのです。西欧でもイスラム系の移民を排斥しようとする「極右」が勢力を増やしていますが、これも同じことです。

キリスト教の自由の考え方を理解できないと、現在世界で起きていることを読み間違ってしまいます。

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