独立宣言や憲法で国民の自由を保障したにもかかわらず、アメリカは独立後百年近く、黒人奴隷を容認していました。それは、キリスト教から生まれた自由の考え方の中に、奴隷を容認する発想があるからです。
キリスト教の自由とは、イエス・キリストと同じ正しい心で判断したことであれば、律法や法律など世のルールを無視しても良い、ということです。
逆に言えば、心が正しくない者には自由はありません。自ら進んで人を助ける気持ちのない劣った者たちに対しては、人が喜ぶことを強制して、少しでもイエス・キリストの心に近づくようにしてあげることが正しいのです。
「人の心の中など、見た目からは分からないではないか。黒人の心が正しくないなどと、どうして言えるのだ」という反論があるかもしれません。
キリスト教は、神が人間を作ったと考えます。神はそれぞれの人間になすべき使命を与え、その使命を果たすために必要な能力をも与えます。神は、その人間が生まれる前にあらかじめ、その者のたどる運命や持って生まれた素質を決めておくのです。
こういう考えをおし進めていくと、人間の判断など神様があらかじめ決めておいたことであって、人間には自由意思などないのだ、ということになります。こういう考え方を「予定説」と言います。キリスト教では昔から、自由意志論と予定説の対立があっていまだに決着がついていません。
アメリカの白人たちは、予定説にもとづいて、黒人にはイエス・キリストの心を持てる素質がなく、奴隷になる運命を神から与えられたのだ、と考えました。現在でもアメリカ社会に存在する根強い人種差別の根底に、この考え方が横たわっています。