高橋是清の出自は、かなり複雑

高橋是清は若いときから、今やらなければならないことを次々とこなしてきました。何かをやっているとどっちにするかを決めなければならないような場面に遭遇し、その時に彼独自の基準に従ってどっちにするかを判断してきました。

彼はどちらにしようかを決める時に、自分の事をあまり考えずどうしたら周囲の人や日本のためになるかを考えました。彼は誠を基準にして自分の身の処し方を判断していたのです。その判断が後から考えると正しかったのです。

彼の伝記を読んでいくうちに、なぜ彼が総理大臣になったのか、その理由が何となく分かってきました。誠に従って行動していくと、周囲が是清を評価して彼をほっておかなくなるのです。普通の人は、誠に従って行動することができないために、是清のようにドラマチックな人生を歩むことができないのではないでしょうか。

彼の人生は、安政元年(1854年9月)に生まれた時からドラマチックです。是清の母親であるきんは、江戸の芝白金で魚屋をやっていた三治郎の娘でした。三治郎は決して貧しくなかったのですが、妻と離縁していたために年頃になったきんに行儀見習いをさせようとして、幕府の御用絵師である川村庄右衛門の家に奉公させました。

庄右衛門が、きんに手を付けて是清を産ませました。庄右衛門47歳、きんが16歳の時です(どちらも数え年)。非嫡出のややこしい赤ん坊なので、生後3日で仙台藩(伊達正宗の子孫が殿様をしている藩)の江戸藩邸詰めの高橋という足軽の家に里子に出され、後にそこの養子になりました。

是清の生誕には三つの家が関係しています。実母きんの実家である三治郎の家(魚屋)。実父である川村庄右衛門の家(幕府の御用絵師)。養子に行った高橋家(仙台藩の足軽)。実母きん及びその実家である三次郎の家とは、関係が絶えていたようです。

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