是清は、日露戦争の戦費調達を政府から命じられた

明治23年満35歳で、是清は財産と職を失って素浪人になりましたが、多くの政界有力者が彼を遊ばしておくのはもったいないと考えました。日銀総裁が是清を日銀本店ビルの建設現場の事務責任者に雇ったことから、彼は今までやった事のない金融関係の仕事をすることになりました。

明治26年(満38歳) 日銀西部支店長
明治28年(満40歳) 横浜正金銀行本店支配人。この銀行は為替を専門に扱う銀行で後の横浜銀行(今は三菱東京UFJ銀行)
明治30年(満42歳) 横浜正金銀行副頭取
明治32年(満44歳) 日銀副総裁

明治37年2月(満49歳)に、日露戦争が始まりました。政府は是清に対し、戦費調達のために国債を外国で売り込みに行くことを命じました。是清がロンドンに向かっている途中に、横浜正金銀行のロンドン支店長から「ロンドンでは国債売り込みの見込みはない。横浜正金銀行などは、ビタ一文の信用もない」という電報が届きました。

是清はこの電報を無視してロンドンに赴き、有力銀行の幹部たちに対し国債引き受けの打診をしました。ところが電報通りに、彼らは日本に深く同情しましたが、引き受けようとはしませんでした。

ロンドンの銀行家が日本の国債を引き受けようとしない理由は、日本に戦争の勝ち目がないという理由の他にいくつか理由がありました。

日本と英国は同盟国でしたが、イギリスはこの戦争に対して局外中立の立場を維持していました。そのため、軍費の調達に協力するのは局外中立の立場に抵触するのではないか、と銀行家たちが心配していたのです。

是清はこのような国際法上の問題は無いということを知っていたので、銀行家たちに「君たちの信頼する法律家や歴史家たちに調べて貰ったらよかろう」と提案し、彼らの疑念を解消しました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする