昭和初期の日本と中国では、国力も軍事力も圧倒的に日本の方が上でした。昭和12年に起きた支那事変は、半年ぐらいで実質的にかたがつき、日本は中国の主要部を制圧し、蒋介石の国民党軍は四川省の山の中に逼塞しているだけでした。
英米は、ミャンマーから四川省まで山の中に道路を通して援助物資を運んで、かろうじて国民党軍を支えていました。日本との戦いに勝つ見込みはなく、蒋介石は日本との和平を望んでいました。だから日本が本気で和平を望めば、蒋介石もそれに応じたはずです。
ところが何年もの間、和平は実現せず膠着状態が続きました。日本の外交官も軍人もその多くがこの状態にうんざりして早急な和平を望んでいたのに、和平は実現しませんでした。日本の側に和平の実現を望まない勢力がいた、としか考えられません。
1938年、イギリスが日本と支那との和平を仲介しました。このとき支那が提示した案は、満州国を事実上承認するものだったので、特に日本側が反対するようなものではありませんでした。ところが日本が蒋介石の下野を要求したため、交渉は打ち切りになりました。
その後、近衛首相は、「以後国民党政府を相手とせず」などと言って、自分の方から和平交渉のルートを壊してしまいました。近衛文麿は、支那事変を止められないようなポーズをとっただけのように見えます。
尾崎秀実などのソ連のスパイはごく少数で、彼らだけで支那事変を長引かせることは不可能です。彼ら以外にも、支那事変を長引かせようとした勢力がいて、尾崎秀実の提言に賛同しました。
その勢力というのが、社会主義化した官僚でした。近衛文麿の私的諮問機関だった昭和研究会に社会主義者が多かったという話を前回しましたが、企画院などの官庁にも社会主義者が多くいました。日本を社会主義に持っていこうとしていた官僚を革新官僚といいます。
彼らは昭和13年(1938年)に国家総動員法を国会で制定させました。これは国家が必要とする資源を政府が統制しようとするもので、まさに社会主義政策を実施する法律です。この法律を成立させるには、日本が戦争中であるという状況が必要だったので、和平が実現すると都合が悪かったのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月4日 右翼・左翼という言葉を使うと、現実が分からなくなる
4月16日 アメリカが石油を禁輸したから戦争になった、というのは説明になっていない
4月21日 ソ連の工作機関が、アメリカを戦争に誘導していった
5月5日 金本位制復帰も、日本が社会主義化する大きな要因だった
5月9日 反乱を起こした青年将校は、社会主義者を指導者に仰いでいた
5月21日 日本共産党員も獄中転向し、非マルクス系の社会主義者になった
5月23日 天皇制を認めれば、社会主義を信奉してもOKになった
5月30日 ソ連のスパイの尾崎秀実は、支那事変拡大を煽り立てた
6月13日 憲法が規定する自由主義の原則を、国の役所が否定した
6月18日 軍国主義者や右翼が悪い、というのは説明になっていない
6月23日 昭和初期の日本の経済には、社会主義化するような必然性はなかった
6月27日 日本が社会主義化した大きな原因は、Freedomが輸入品だったこと