大アジア主義が今の日本の政治の中でどのように生き残っているかを、見て行きます。
大アジア主義は、幕末に発生しました。当時の日本人は、支那や朝鮮の現実を何も知りませんでした。イギリスは1792年にマカートニー伯爵を清に派遣して、通商交渉を行っており、1840年にはアヘン戦争を始めました。ロシアは1689年に清とネルチンスク条約を結び、国境を確定しました。
江戸時代の日本が東アジアと無交渉の間に西欧列強は現実に支那の支配者と交渉したり戦争をしたりして、その過程で情報を蓄積していました。日本は情報を何も持っていないのに、「日本は昔から支那や朝鮮のことをよく知っている」と勘違いしていました。この勘違いはずっと続き、後世に様々な災いをもたらしました。
幕末に日本が支那や朝鮮に関して何も知らない時に生まれた大アジア主義は、空想の産物です。東アジアにはもともと国境の概念がないので、日本人は日本と支那や朝鮮との連携を、大名たちの同盟関係のような感覚で考えていました。
江戸時代の体制は大名の同盟体で、一番大きな大名が江戸の将軍になり、小さな大名が各地に城を持つ大名になりました。幕末の大アジア主義はこの感覚で、朝鮮が日本の戦略に従わなければ戦って打ち負かし外様大名にしてしまえ、という感じです。そうしたら全体として大きくなるので、欧米列強に対抗する力が増すことになります。
島津斉彬・勝海舟・吉田松陰などの大アジア主義者の元祖もこの発想で、明治時代に西欧から入っていた主権国家・国境という考え方がありません。この大アジア主義の元型は時代と共に変化しますが、主権国家という発想があやふやなままでした。
歴史学者が大アジア主義を敬遠するのも、西洋式の学問の枠組みから外れているので研究しにくいからだと思います。それを無理に枠組みに押し込み、国境を前提とした頭で考えるから、「侵略だ」などとおかしなことを言いだすのです。
大アジア主義は、本場の儒教は日本の神道と同じだという誤解と、仏教は支那でも盛んなはずだという誤解が重なり、支那や朝鮮と日本は文化的に同じだという勘違いから出来上がっています。このような文化的・宗教的な誤解の要素を無視して研究しても、何も分からないのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した