7世紀後半に日本の君主が「天皇」という称号を使いはじめたので、自動的に日本と支那との間の国交が断絶しました。遣唐使は続けていましたが、これは単なる文化交流であって、国交ではありません。遣唐使の派遣を国交だと言っている教科書は、間違っています。
1964年の東京オリンピックに大韓民国は参加しましたが、当時日韓の間には国交がありませんでした。国交は無くても、文化交流は可能なのです。単なる文化交流の遣唐使派遣さえ、894年には廃止されました。
室町時代に足利義満将軍は、日本国王だとウソをついて宋に朝貢して金儲けをしました。義満の使者が宋の港に到着すると、宋側は大喜びし、異国の王が宋皇帝の威徳を慕ってやってきたことを、国内で大宣伝しました。そして使いが持ってきた手土産の数倍の価値のある返礼品を贈りました。また来てほしいからです。
16世紀末、豊臣秀吉は明に軍隊を送ろうとしましたが、その途中を朝鮮が邪魔したので、朝鮮と戦いました。なぜ秀吉が明に軍隊を送ろうとしたのかについては、諸説があります。
李氏朝鮮は明の皇帝から冊封を受けた家来の国ですから、明は朝鮮に援軍を送り日本と戦いました。その後和睦交渉が始まり、明は豊臣秀吉を「日本国王に封じる」という条件を提示しました。秀吉は天皇陛下から関白に任じられていたので、天皇陛下の家来です。明は天皇陛下の存在を無視したのです。従って秀吉は、明の提案を拒否しました。
7世紀末に支那と国交が断絶した後、日本人が支那に関して直接に得た情報は、留学生が支那で学んだ儒教や仏教などの学問と、元寇や秀吉の朝鮮出兵など戦争の時に得たものだけでした。江戸時代に至っては、幕府は日本人の海外渡航を全面的に禁止したので、情報は本に書かれていることに限られていました。
儒教の本には、「支那は極めて危険な国だ」などとは書かれていません。それとは反対に、「道徳を守る聖人でなければ、皇帝になる資格はない」などと書かれています。これを読んだ江戸時代の日本人は、「支那は聖人の国だ」と思ってしまったのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した