日露戦争までの日本がやった事は国家主権の確立でした。指導者たちは、欧米にも留学して、近代国家の骨格をかなり理解していました。日露戦争に勝って日本がその目的を達した後、指導者たちが次々と亡くなってしまいました。日露戦争が終わったのが1905年で、伊藤博文が亡くなったのは1909年(大正になる2年前)です。山県有朋は長生きしましたが、1922年(大正11年)に亡くなりました。
日本が日韓併合をしたのは、伊藤博文が朝鮮人に暗殺された翌年の1910年でした。日韓併合は、日本が朝鮮を植民地にしたということではありません。朝鮮を日本にすることで一回り大きな日本を作り欧米に対抗しようということで、大アジア主義そのものです。
日本の元勲を朝鮮人が殺したので、朝鮮人は「日本に攻め込まれるのではないか」と大いに恐れました。そこで朝鮮の方から日韓併合を日本に申し入れたのです。伊藤博文は日韓併合などうまく行くはずがないと反対していたのですが、その本人が殺されたので強力な反対者がいなくなり、日本は朝鮮の申し入れを認めました。愚かなことをしたものです。
大正から昭和に入る頃には、次の世代が日本の指導者になりました。例えば、大正13年に首相になった加藤高明(1860~1926年)や昭和4年に首相になった浜口雄幸(1870~1931年)は、伊藤博文や山県有朋よりも20~30歳ぐらい若いです。
彼らが50歳代になって重要な地位に就いたのは日露戦争後で、日本はすでに主権国家になっていたため、本当の意味で主権国家確立に悪戦苦闘したわけではありませんでした。また彼らは東京帝国大学を卒業しただけで、先輩たちのように欧米に留学しませんでした。東京帝国大学が教える内容もかなりレベルが上がっていたので、留学の必要はないということだったのでしょう。
しかし日本の伝統にはもともと、国家主権という概念がありません。江戸時代は支那や朝鮮との国交はなかったし、日本人も学んだ儒教は、ただ一人の皇帝が世界を支配するという考え方です。隣接する国々がそれぞれ主権を持っているという感覚の育ちようがありません。
できて間がない日本の大学で理論を勉強するだけでは、国家主権に対する執念までは伝わりません。ナポレオン戦争以来、各国が国家主権を主張して戦争を繰り返してきた西欧社会で生活して初めて、国家主権や民族の独自性の意味を肌で感じることができたのです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した