五・一五事件を起こしたのは26人で、海軍将校が中心になっていました。殺された犬養首相は政友会の党首でしたが、前政権の民政党が行って日本を恐慌にした金本位制をもとに戻したり、陸海軍との関係を修復したりして、軍人に恨まれるような政治家ではありませんでした。ところが軍人たちは、個別の政治家が何をしたのかということに関心がなく、政治家はみんな悪党だと考えていたのです。
テロ参加者のうち海軍の軍人は海軍の軍法裁判所で裁判を受け、海軍刑法が規定する叛乱罪を適用されました。条文では首魁は死刑と決められていたのですが、死刑になった者がおらず、最高でも禁錮15年を宣告されただけです。しかも5年後に出所しています。
参加者のうち民間人は普通の裁判所で裁判を受け、そのなかに殺人罪で無期懲役を受けた者がいました。事件の中心となった海軍軍人よりも民間からの参加者の方が、刑が重かったのです。
裁判官となった軍人が仲間に甘かったということですが、犯人たちがやった事がそれほど悪いことだとは思っていなかった、ということでもあります。
この事件で注目すべきは、一般の日本人の反応です。全国各地から裁判官のもとに、「減刑嘆願書」が山のように届きました。参加者が26人という少数の集団だったこともあって、日本人は230年前に起きた「赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入り」を連想したのです。
神道の信仰から来た「誠」の考え方は、「無私の心で人のために行うことであれば、社会のルールに反することでも正しい」というもので、キリスト教の信仰からきたFreedomと同じ考え方です。誠やFreedomの考え方は、近代国家を作り社会を豊かで安全なものにする極めて重要なものです。しかし時には、このような現象も起こします。
参加者が受けた刑が意外に軽く、日本人が彼らの行為に誠を感じて支持したため、二・二六事件が誘発されました。二・二六事件は4年後の昭和11年(1936年)に、陸軍の青年将校たちが1500人の兵士を指揮して起こした事件で、まさに反乱です。高橋是清大蔵大臣・斎藤実内大臣など政府要人4人と警官5人が殺されました。
この時は、日本人は赤穂浪士の討ち入りを連想せず誠も感じなかったので、減刑嘆願書はあまり来ませんでした。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した