日露戦争から6年後に大正の世になりました。この頃から日本を取り巻く内外の環境が激変し、同時に日本の為政者の劣化が始まって、対外的な方針がグラグラし始めました。
大正7年 (1918年) 第一次世界大戦が終了
大正13年(1924年) アメリカが排日移民法制定
昭和2年 (1927年) 南京事件
大正7年に第一次世界大戦が終わりました。日本は戦争中西欧に物資を大いに輸出して好景気に沸いていましたが、それが一転して不況になったのです。
日本とアメリカは、大戦中は同盟国だったので、アメリカは日本に配慮していました。しかし戦争が終われば遠慮する必要がなくなり、日本に対して露骨な人種差別を開始しました。そして大正13年には、日本人移民を禁止する排日移民法を制定しました。日本の世論は激高し、欧米に対抗しようという大アジア主義の主張が勢力を増しました。
そうは言いながらも、日本の世論は親英米でもありました。維新以来、日本は英米に支援されて近代化を進め、日清・日露の戦争を乗り切ってきたので、ずっと親英米だったのです。日本人の心の中に、大アジア主義と親英米という二つの矛盾する感情が同居していました。世論や支配層が親英米なので、外務省も親英米の方針を堅持していました。
ちょうどそういう時に南京事件が起きました。南京事件と言えば、支那が「南京大虐殺」を捏造している1937年の事件を思い浮かべる人が多いですが、ここで取り上げるのは1927年に起きた「南京事件」です。
この事件は有名ではありませんが、大アジア主義にとっては、極めて重大な事件です。南京には多くの外国人が住んでいたのですが、蒋介石の政権に属する軍閥が南京郊外に居座って、南京を威圧しました。そこに住む外国人から金を巻き上げようとしたらしいのです。
軍隊が南京の外国人を威圧するのを見て、支那人の暴徒が外国人居住区に押し寄せて、略奪・殺人・強姦を働いたのです。欧米人も日本人も被害に遭いました。このときに外相の幣原喜重郎は、「支那との良好な関係を維持するために」日本領事館を守る日本の警察官や守備隊に対し、暴徒への発砲を禁止したのです。
支那人の暴徒は、日本の領事館に侵入しましたが、警察や守備隊は発砲しなかったため、堂々と正面から領事館に入ってきて略奪し、領事館に避難していた日本人女性20人以上を強姦しました。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した