江戸時代の日本人は支那の実態を全く知らず、儒教・仏教・歴史の本を読んだだけで、「日本と支那は、共に儒教と仏教を信奉し、同じ文字を使っている。このように文化が共通しているから、仲間である。日本・支那・朝鮮は連携して、欧米列強に対抗しよう」と考えました。
このような大アジア主義を幕末の多くの日本人は唱えましたが、その中には錚々たる人物も含まれていました。幕末期の日本人で後世に多大な影響を与えた人物として、勝海舟・吉田松陰・島津斉彬(江戸時代最高の名君と言われた薩摩藩主で、西郷隆盛や大久保利通が非常に尊敬していた)が挙げられます。実は彼らはみな、大アジア主義者だったのです。
この三人は非常に聡明で現状を理解する能力に恵まれていましたが、当時はなにしろ支那に関する生の情報がまるでありませんでした。先覚者たちは、欧米列強の実情を知ることに精力を注ぎ、支那や朝鮮にまでは頭が回りませんでした。このようなことから、誤った判断をしてしまいました。
さらに日本人の心に染みついた、大乗仏教の影響も見逃せません。大乗仏教は、「人間はみな同じであって、個性の違いなどない。民族や人種の違いなどもない」と考えます。
勝海舟・吉田松陰・島津斉彬という優秀な人物が誤って大アジア主義を唱えるような状況だったので、その他の日本人もほとんどが大アジア主義者になり、そのままの状態で明治になりました。明治になって政府が支那や朝鮮と実際に交渉するようになりその実態を知るにつれて、鋭い日本人は「大アジア主義」をおかしいと思うようになりました。
明治初期の日本で最も影響力のあった人物は西郷隆盛と大久保利通ですが、彼らは早い段階で亡くなったため(西郷隆盛は明治10年、大久保利通は明治11年)、大アジア主義をどのように考えていたのか、はっきりしません。
福沢諭吉が『脱亜論』を書いて大アジア主義を否定したのは明治18年です。明治の日本に最も影響力を与えた伊藤博文と山県有朋は、どちらも大アジア主義に否定的でした。伊藤博文は、「日本と朝鮮は文化が違う」と正しく認識していて、日韓併合に反対していました。
このように現実を見る目がある優秀な者たちは大アジア主義に否定的でしたが、その他の多くの日本人は、幕末にできた大アジア主義から脱することができませんでした。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した