日本軍が満州国という友好国の中で協定に基づいて軍事作戦をすることと、支那本土で軍事作戦をすることとは、諸外国に与える印象が全然違います。日本軍が支那本土の北部である華北で軍事作戦をやったことで、日本とアメリカの関係が決定的に悪くなりました。
アメリカは国土が広く資源に恵まれているので、領土的野心はさほどでもなく、支那をアメリカ製品の市場にしようと考えていました。従って西欧列強や日本が支那の特定地域に大きな影響力を築くのに反対し、「門戸開放政策」を唱えていました。日本が満州で優越した地位にあることも不満だったのです。だから、日本軍が支那本土で軍事作戦を展開することを許容しませんでした。
当時、世界中を見渡してアメリカと対抗できるだけの国力があるのは、ドイツと日本でした。潜在的な敵国である日本を叩いておこうという意図もアメリカにはありました。また、アメリカが日本人を人種差別したために、日本とアメリカの関係が悪化したという理由もありました。さらに、支那で活動していた宣教師が偏向した報告をアメリカにしていたために、アメリカでは親支那・反日の感情が醸成されました。
これらの悪条件が重なった時に、日本軍が支那本土で軍事作戦をやったので、これが決定的だったのです。大東亜戦争直前にアメリカは日本にハルノートを突きつけて、石油の輸出禁止や日本資産の凍結などを行うと脅しました。この時にアメリカが対日制裁中止の条件にしたのが、日本軍の支那からの撤退だったのです。
アメリカは、日本に対抗するために蒋介石の重慶国民党政府に膨大な援助を行いました。武器や食料・お金の援助だけでなく、日本と戦う戦闘機部隊まで重慶に派遣しました。表面上は義勇兵ということにして、国際法の網を潜り抜けたのです。蒋介石が日本に反抗出来たのは、アメリカが後ろにいたからです。
このような事情から、日本の軍人は同盟国を求めました。そして当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったドイツと軍事同盟を締結しました。これが日独伊三国軍事同盟です。この同盟は軍事的にあまり意味がないだけでなく、アメリカに日本と戦う口実を与えることになりました。この同盟は軍人が勝手に進めたもので、外務省が持っていた国際情勢に関する知識は活用されていません。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した