昭和2年(1927年)に起きた南京事件のとき、外務大臣の幣原喜重郎は南京の領事館を警護する日本の警察と軍隊に対し、無抵抗を指示しました。そのために領事館が略奪され、ここに避難していた20人以上の日本人女性が強姦されました。
自国民に被害が出たので、イギリスとアメリカの政府は報復のために海軍の砲艦で南京の暴徒の巣を砲撃しようとし、日本も誘いました。ところが幣原外務大臣は、この誘いを断りました。そして、国民が激怒するのを恐れてこの事件を隠しました。しかし国民の知るところとなり、多くの日本人が外務省や政府を信用しなくなりました。
Freedomは、心の正しくない者には厳しい教育をしなければならない、と考えます。だから英米が暴徒を砲撃したのは、Freedomに則った行為です。
幣原喜重郎が何を考えてこのような愚かなことをしたのかは、はっきりしません。はっきり言えるのは、幣原はFreedomの考え方を理解していなかったということです。当時も今も国際社会の原則はFreedomです。日本人の考える「自由」とFreedomは発想の根本が違うのです。それを外務大臣が理解していなかったのです。
おそらく彼は、「支那人と日本人は同じ文化を持っているから、話し合えばお互いに理解できる。日本人や支那人は欧米人とは違うのだ」と思ったのでしょう。これは大アジア主義の考え方です。
大アジア主義の考え方を、支那人が理解するはずがなく、「日本は支那を恐れている」と勘違いしました。この事件が起きるまでは、支那人の攻撃は主としてイギリスに向けられていたのですが、この事件をきっかけに日本に向けられるようになりました。
幣原は親英米派だったのですが、アメリカ人にもなめられました。彼は浜口首相が襲撃されて負傷した時、首相の臨時代理をつとめました。しかし彼は、アメリカをはじめとした各方面からなめられて使い物にならず、隠居させられました。
次に彼が政治の表に出てきたのは、敗戦から二カ月後の昭和20年10月のことで、総理大臣になりました。アメリカは、幣原ならアメリカの言いなりになると考えたのです。幣原喜重郎は東京帝国大学をトップで卒業したようですが、非常に無能でした。彼が困難な時期に外務大臣を長く務めたのは、日本の不幸でした。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した