満洲はもともと支那ではなく、満州人の土地でした。17世紀にアイシンギョロ・ヌルハチが現れて満州を統一し、さらに支那に攻め込んで清王朝を建国しました。この時も、法的には満州と支那は別の国でした。ヌルハチの子孫は、満州の王であるとともに、清の皇帝であり、両国は同じ君主を戴く同君連合の関係でした。
イギリスとインドはもともと全く別の国でした。その後イギリスはインドに進出し、1858年にインド帝国が建国され、イギリスのヴィクトリア女王がインド帝国の皇帝になりました。イギリスとインドは、同じ君主を戴く同君連合になったのです。第二次世界大戦後にインドは帝政を廃止して共和国になりました。その結果、イギリスとインドは本来の状態に戻り、全く別の国になりました。
清王朝もこれと同じで、イギリスが満州に相当し、インドは支那に相当します。1911年に辛亥革命が起こり、清王朝が潰れ中華民国という共和国ができました。従って、満州と支那は本来の別々の国の状態に戻りました。
満州=イギリス 支那=インド
ところが支那人は、満州は中華民国の一部だ、と主張したのです。これはインド共和国が、「イギリスはインドの一部だ」と主張したのと同じことです。支那人の主張の背景には、「世界はすべて支那の皇帝が支配しており、国境などはない」という発想があります。
日本人は、満州は支那ではないと正しく認識していて、ヌルハチの子孫である溥儀が満州国の皇帝になるのを助けました。そして日本は満州国を承認し保護しました。ところが支那は、満州の領有権を主張して満州国を否定したのです。満州と支那は別だということは明らかな事実なので、この状態のままならばさほど大きな問題にならなかったと思います。
孫文もこの事実を分かっていて、満州は中華民国に含まれないと発言したこともあります。しかしその後、支那の世論に押されてこの発言を撤回したりして、揺れ動いていました。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した