663年、日本は支那と新羅の連合軍と白村江で戦い、大敗北しました。そして唐は戦勝の余勢を、駆って日本に攻め込み征服しようとしていました。これに対抗して、大和朝廷は独立を維持しようとして、体制を大改革しました。
律令制度を採用して、中央集権化を図りました。また対外的には、国名を「日本」に変えました。従来の「倭」は支那の皇帝に冊封された国だったので、「それとは違う」と主張したかったのかもしれません。また、君主の称号を「天皇」と呼ぶことで、支那と日本が対等であることを主張しました。天皇という称号は皇帝と対等な称号なのです。
白村江の戦いより前に、聖徳太子は隋の煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」という手紙を送りましたが、天皇という称号は使用していなかったようです。白村江の敗戦後の680年頃に、天武天皇が天皇の称号を使いだしました。
日本が天皇の称号を公式に採用すれば、唐が日本に攻め込む可能性が高まります。支那の皇帝制度からすれば、皇帝は地上に一人しかいないはずであり、天皇という称号を使用することは、皇帝へ挑戦することだからです。大敗北の後に、日本は非常に大胆な戦略を採りました。
結局、唐は日本に攻め込まず、それ以後現在まで、日本は天皇という称号を使い続けています。支那の皇帝陛下からすれば、建前から日本の天皇陛下を討伐しなければなりません。しかしそれも大ごとなので、天皇陛下を無視するしか方法がなくなりました。
支那の皇帝陛下が日本の天皇陛下に何か用事があれば、手紙を書かなければなりません。その時に宛名を「日本国 天皇」と書くことは、支那の皇帝制度に反するのでできません。「日本国王」と書けば、日本はその手紙を受け取りません。支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せなくなったのです。これは要するに、両国の間に国交がなくなったということです。
元のフビライ皇帝は、日本に手紙を書き、朝貢するように促しました。その手紙の宛名が「日本国王」だったので、日本は「手紙の宛名が間違っている」と言って受け取りを拒否しました。それでも元が同じ内容の手紙を何度も送ってきたので、うるさくなった鎌倉幕府は使者を殺しました。そこでフビライが怒り、元寇が起きました。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した