昭和初期の日本の議会は、政友会と民政党のうちの多数の議席を取った方が政権を担当するという二大政党制になっていて、この仕組みを「憲政の常道」として国民も納得していました。
しかし今と違って、議会で多数を占めた政党が国会で多数決で自党の党首を首相に選出するというのではなく、天皇陛下が首相を任命していました。天皇陛下は、議会で多数を占めた政党の党首を首相に任命するという習慣ができたというだけのことです。その時の首相が失脚すれば、天皇陛下はもう一方の政党の党首を首相に任命しました。
つまり政党が政権を獲得するには、選挙で勝つという方法以外に、その時の首相をスキャンダルで失脚させるというやり方もありました。そのために、当時の野党は首相を引きずり下ろすために下らない議論を国会内で行いました。まるで今の野党が阿部首相を引きずりおろすために仕掛けた「森友・加計」問題と同じようなことが、起きたのです。
戦前の国会で起きた事件としては、「統帥権干犯問題」や「天皇機関説問題」が有名です。これらを今の学者はもっともらしく解説していますが、もともと野党が時の首相を追い詰めるために行ったことで、程度の低い議論をしています。それを新聞やラジオが囃し立てました。こんなことばかりしていたので、一般の国民は、国会や内閣を信頼しなくなりました。
恐慌の影響もあって、統制経済を主張する国家社会主義が流行し、自由主義経済に対する反発が強くなりました。しかし政府は自由主義を唱える英米との協調外交を行っていたので、そういう点でも政府の評判が悪くなりました。また、アメリカが日本に対して人種差別を行っていたので、アメリカに弱腰の外務省への風当たりが強くなりました。
これらの要因が重なって、一般の国民や軍人たちの間で、「元老、重臣、財閥、官僚、政党」という支配層はみんな腐敗しているという考えが広まってきました。それと軍人たちの、「参謀本部や軍令部の命令なしに勝手に軍事行動を起こしても良いのだ」という気分がかさなり、満州事変の翌年の昭和7年 (1932年)に、「五・一五事件」起き、犬養首相が殺されました。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した