二・二六事件の反乱軍が都心を制圧していた時、陸軍幹部が会議を開いて、「蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ。諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」などと、反乱軍将校をなだめるような理解ある態度を示していました。
ところが天皇陛下が激怒されたため、反乱軍を攻撃することに決まり、これを知った反乱軍の下士官・兵は原隊に復帰し、反乱は終焉しました。そして反乱軍の将校たちの多くが死刑になりました。
この反乱が力で鎮圧されたため、軍隊の統制がある程度回復し、「参謀本部や軍令部の命令なしに勝手に軍事行動を起こしても良いのだ」という気分は薄らぎました。その一方で、政治家や財閥など当時の支配層は軍人を恐れ、その意向に逆らわないようになりました。そして、軍人が主張する「反英米」「大アジア主義」「統制経済」という方向に日本は進み出しました。
二・二六事件の翌年の昭和12年(1937年)に支那事変が起きました。この時政府は、大アジア主義の考え方から支那との和平を望んでいました。そこで日本と和平を結ぼうとしない蒋介石の国民党軍を打ち破って四川盆地の重慶という山奥に追い払いました。四川省の人口は支那全体の16分の1にすぎず、蒋介石の政権は地方の弱小政権に成り下がったのです。その蒋介石の地方政権をアメリカが支援し、日本との戦いを続けさせました。
また、北西省の山の中の延安にソ連から支援を受けた毛沢東の共産党政府がありましたが、これも弱小の地方政権でした。その他にいくつかの軍閥もいました。最も豊かな沿岸部を支配していたのが南京国民党政府(汪兆銘主席)で、日本はここと和平を結びました。
このように当時の支那はいくつかに分かれていたのですが、どの勢力も日本軍とまともに戦えるような力はありませんでした。支那事変から大東亜戦争で日本が負けるまでの8年間、支那では大規模な戦闘などなく、たまにアメリカの援助を受けた蒋介石軍と戦った程度です。
南京国民党政府は日本が負けると同時に自然消滅し、二つの弱小政権(四川省の蒋介石政権と陝西省の毛沢東政権)が天下を争ったのです。どちらも自分たちの政権が山奥の弱小政権だったことを認めようとせず、南京国民党政府を無視しています。今の支那共産党など、日本軍と戦ったなどと、ウソの宣伝をしています。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した