明治元年(1868年)からの日本は「てんやわんや」でした。廃藩置県を行い(明治4年)、日本の指導者たちが岩倉使節団に参加して日本を留守にしてしまい(明治4年~6年)、西郷隆盛が唱えた征韓論を大久保利通らが潰し(明治6年)ました。
西郷隆盛が大アジア主義に対してどのような考えを持っていたのかはっきりしません。しかし、「礼儀を知らない日本とは付き合いたくない」と散々日本を侮辱した朝鮮を、「無礼だ」と考えて征伐しようとしたのだから、彼も朝鮮を別の国だと思っていなかったようで、大アジア主義的です。
最近も「応募工問題」や「いわゆる従軍慰安婦問題」で南朝鮮が日本を侮辱し、それに対し日本はまじめに相手をしているので、どちらも150年前からあまり進歩していないようです。全く違う文化を持つ民族だと達観して、ドライに報復を行うべきです。
明治政府は、西南戦争で薩摩武士団を打ち破って解体し(明治10年)、鹿鳴館を作って文明開化を推進し(明治16年)、大日本帝国憲法を発布(明治22年)しました。ここまでの間の日本人は、外国のことなど考える余裕がありませんでした。
明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布を終えて、日本はやっと一息つくことができました。この頃に、大アジア主義の第二段階が始まります。頭山満が玄洋社という有名な大アジア主義の団体を作り、大井憲太郎が大阪事件を起こし(朝鮮独立のためのクーデターを行おうとして、資金調達のために強盗を働いた)、樽井藤吉が『大東合邦論』を書きました。
この三人は1850年頃の生まれで、明治維新で活躍した志士たちよりも若く、また薩長や土佐の生まれでもありませんでした。明治維新の運動に参加できず、そのエネルギーを大アジア主義に向けたのです。
彼らは江戸時代に教育を受けたので、西洋式の主権国家・国境の概念を持たず、朝鮮や支那で明治維新と同じこと(近代化)をやろうとしました。日本の実力がまだそれほどでもなく日清戦争に勝ったわけでもないので、日本と支那や朝鮮が対等の立場で連携しようと考えていました。この頃に、大アジア主義が空想だということを指摘する意見も出てきました。福沢諭吉が『脱亜論』を書いたのは、1885年です。
日本は日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)に勝ち、支那や朝鮮との差が歴然としました。また、支那・満州・朝鮮に日本は権益を獲得しました。このような現実を踏まえて、日本がアジアのリーダーになってアジア諸国の連携を推進し、欧米列強に対抗しよう、というように大アジア主義は変わっていきました。ただし、国家主権・国境という西欧の概念をあまり意識しない点では、昔と変わりがありませんでした。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した