大日本帝国憲法第11条は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定しています。具体的には、天皇陛下を補佐する陸軍の参謀総長と海軍の軍令部長が、実戦部隊に作戦行動を命令する、という仕組みになっていました。ちなみに陸軍大臣と海軍大臣は内閣の一員で、それぞれ財政と人事という軍隊の行政を行うだけで、作戦命令を出す権限はありません。
満洲事変を起こした関東軍参謀の石原莞爾中佐も朝鮮軍を越境させた林銑十郎中将も、参謀総長の許可も得ていませんでした。これは憲法違反であり、軍紀にも違反しているので、普通なら銃殺刑になってもおかしくありません。
ところが彼らは処罰を受けずクビにもならず、石原莞爾は最終的に中将になり、林銑十郎は首相にまでなりました。軍人が犯した犯罪は普通の裁判所ではなく、軍人が裁判官をつとめる軍法裁判所で裁かれます。軍人たちは、彼らのしたことを納得していた、と理解すべきでしょう。
満洲は歴史的に支那の一部ではなく、別個の地域でした。その地に昭和7年(1932年)、満州国が建国され、日本はそれを承認しました。満州人の皇帝が国を建て、日本はそれを保護するという形なので、別におかしくありません。イギリスなどの西欧諸国は、満州に強力な国家ができれば東アジアが安定するので、特に反対する理由もありませんでした。
ところがアメリカは、満州に日本が進出することに反対していたので、外務省もアメリカを忖度して、満州国に関わることを渋っていました。満州問題に関する国際連盟のリットン報告書はかなり日本に好意的ですが、外務省の弱腰の影響もうかがわれます。満州問題でも、軍人たちと外務省は意見が合わなかったのです。このような理由で、軍人たちは石原莞爾や林銑十郎のしたことを合理的だと判断したわけです。
この事件以後、軍人たちは政府や参謀本部の命令なしに勝手に軍事行動を起こしても良いのだ、と思うようになりました。石原莞爾は関東軍の参謀を務めた後、参謀本部で勤務しました。その時期に、出先の実戦部隊の軍人たちが参謀本部の命令なしに作戦を行ったので、石原莞爾は彼らに文句を言いました。そうしたら彼らは、「石原閣下が満州でなさったのと同じことを、我々もやっているのであります」と反論しました。
日本の国家組織は統制がとれない状態になったのです。軍隊は政府の言うことを聞かず、軍隊の実戦部隊は、参謀本部の命令を聞かなくなりました。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した