江戸時代、荻生徂徠(1666~1728年)という儒教の有名な学者がいました。彼は支那に留学したかったのですが、鎖国制度のために果たせませんでした。彼は江戸市内から品川に引っ越したのですが、品川は江戸から二里だけ西にあります。その時彼は、「聖人の国に二里近づいた」と大いに喜んだそうです。
私は、この話を高校の歴史の授業で聞きました。先生が「いつの時代にも、こういうバカはいるのだ」というと、クラス中が爆笑しました。今考えると、荻生徂徠だけでなく江戸時代の日本人は、「支那は聖人の国だ」と思い込んでいたのです。武士だけでなく商人や農民も、儒教を学んでいましたので、日本中がこのように洗脳されてしまったのです。さらに悪いことに、日本人は儒教の本質(宗族を大事にすること)を理解することが出来ず、神道の一種だと誤解をしました(水戸黄門の父親は変わった人だった)。
奈良時代に、日本は仏教を本格的に唐から輸入して「奈良仏教」を始めました。その後も僧侶を唐に留学させて、盛んに仏教理論を導入しました。最澄と空海は同じ遣唐使船に乗って唐に留学し(804年)、仏教の教義を日本に持ち帰りました。
最澄や空海が唐に留学した時の唐は、まだ仏教が盛んでした。ところが唐が衰えたころから急激に仏教が衰退しはじめました。ちょうどその頃に日本は遣唐使を廃止し(894年)、支那の仏教に関する情報が入らなくなりました。日本人は、仏教が支那で衰退したことを知らず、仏教がその後も支那で栄え続けていると、誤解しています。
唐が滅びた後の支那では、仏教は道教など他の宗教と融合し、その宗教の一部のようになってかろうじて生き延びています。例えば、道観(道教の寺院)の片隅に阿弥陀像が安置されていることが多いです。
元末の内乱期に白蓮教が大いに勢力を伸ばし、その中から朱元璋が現れて明を建国しました。白蓮教を仏教の宗派のように考える人が多いですが、実際はペルシャから渡来したマニ教に仏教的な要素が若干加わったものです。この頃になると、仏教だけで教団が成り立たないほど、仏教の力が衰えていたのです。
いま、支那の共産党政府は宗教弾圧を激しく行っていますが、弾圧の対象は道教(法輪功)、キリスト教、イスラム教です。仏教は特に弾圧されていませんが、それは勢力が微弱なため共産党にとって危険な存在ではないからです。
以下はひと続きのシリーズです。
4月9日 支那の国有企業が民営化すれば、共産党政権が崩壊し、伝統文化が傷つく
4月11日 支那の伝統を破壊するまでは、アメリカの目的は達せられない
4月12日 アメリカのスーパー301条は、邪悪な者には自由を認めない、という法律
4月15日 支那との付き合いが短い国が、支那の危険性に目覚めている
4月17日 支那の皇帝陛下は、日本の天皇陛下に手紙を出せない
4月18日 江戸時代の日本人は、支那を「聖人の国」だ、と誤解した
4月23日 支那は、自国民も外国人も守ろうとせず、略奪をする
4月26日 大アジア主義は、江戸時代の社会体制を前提として考え出された
5月1日 外務大臣が、英米のFreedomの原則を理解していなかった
5月3日 金解禁によって日本は恐慌になり、国民は政党を信用しなくなった
5月6日 満州事変以後、軍人たちは中央の言うことを聞かなくなった
5月7日 元老、重臣、財閥、官僚、政党政治家は、みんな悪党だ
5月8日 軍人が行ったテロから、日本人は「赤穂浪士の討ち入り」を連想した
5月11日 軍人は、大アジア主義の発想から、支那本土で軍事作戦を行った
5月12日 日本軍が支那本土で軍事作戦をしたために、アメリカとの関係が悪化した