水戸黄門の父親は変わった人だった

私はこれまで日本の伝統として仏教と神道のことを書いてきましたが、儒教については書いてきませんでした。

実は日本人は儒教の影響をほとんど受けていません。尊王思想は確かに儒教からスタートしましたが、幕末には神道に変わっていました。これから、このへんの事情を書いていこうと思います。

水戸黄門の本名は徳川光圀で、御三家のひとつ水戸徳川家の二代目藩主でした。父の頼房は家康の11男なので、光圀は家康の孫にあたります。光圀はテレビドラマの影響で庶民的・人間的な人だと一般に思われていますが、このような評価は後世になってできました。

父の頼房は女中に手をつけて妊娠させました。ところが頼房は子供が生まれるのを嫌がり、堕胎を命じました。

普通の大名は、乳幼児の死亡率が高かった時代なので、一人や二人では満足せずできるだけたくさんの息子を望みました。ところが頼房はそのチャンスを自分から潰そうとしたわけで、その理由はよく分かっていません。

家来の三木之次は、表面上はこの命令に従うふりをして妊娠した女中を自分の屋敷に連れて帰り、ひそかに出産させました。こうして生まれたのが、光圀の兄の頼重です。

出産を終えた女中は再び頼房に仕え、また妊娠しました。そして前と同じことが繰り返されました。頼房は堕胎させろと命じ、家来は自宅でひそかに出産させました。こうして生まれたのが光圀です。

後に二人の幼い兄弟は父にお目見えし、息子だと認知されました。

やがて頼房は、次男の光圀を自分の跡継ぎにしました。母親の身分が低ければ兄であっても跡継ぎにならないことはあります。しかしこの場合、二人の母は同じです。兄の頼重が異常だったわけではなく、しごくまともな人でした。

頼房がなぜこのようなことを決めたのか、その理由がわからないのです。光圀の父親は、変な人でした。

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