光圀自身も変わった人だった

光圀は、自分が実の兄を差し置いて水戸藩主に指名されたことに、納得できませんでした。特別の事情が無い限り、兄が家の後を継ぐという社会的常識に反していたからです。
光圀は親と幕府の命令なので水戸藩主に就任しましたが、兄の息子を養子にして自分の後継者にしました。

このような育ち方をしたために、光圀は君主の正統性ということに深い関心を持ったようです。そして自分の周囲を見渡して、他にも道理に合わない扱いを受けている人を発見しました。その人が天皇陛下です。

建前上は、徳川の将軍も天皇陛下の家来です。しかし現実には天皇陛下は政治に対して何の権限もなく、京都所司代という幕府の役所によってその行動を監視されていました。

この問題を考え続けた光圀は、「日本の本来の統治者は天皇陛下で、自分は天皇陛下の家来だ。徳川将軍は、自分の本家にすぎず主君ではない」という結論を出しました。

「もしも天皇陛下と徳川本家が戦うことになれば、わが水戸藩は天皇陛下に味方せよ」と、光圀はひそかに子孫に対して遺命を出しています。

15代将軍の徳川慶喜は、水戸藩から徳川本家に養子に行った人で、光圀の子孫です。幕末に幕府軍と薩長軍は鳥羽伏見で戦いましたが、途中で薩長軍が「錦の御旗」を掲げました。薩長軍が天皇陛下の軍隊であることを宣言したわけです。その途端に慶喜は戦いを中止して江戸に逃げ帰り、謹慎しました。彼は先祖の遺命を守ったのです。

江戸時代は封建制度の社会で、領地をくれた人が主君である、というのが大原則でした。それを、領地をくれたわけでもない天皇陛下を自分の主君だと考えるのは、革命的な考え方です。光圀は変わった人でした。

彼は大日本史という歴史書の編纂をはじめましたが、この費用は水戸藩の財政の四分の一になったそうです。光圀はどうやらバランスのとれた思考ができない、付き合いにくい人だったようです。