大乗仏教の僧侶が実質的に出家せず俗世間の生活をしているために、お寺を「経営」するようになり、俗世間に生きている信者にとって必要な俗世の便宜を図るようになりました。お寺の門前に神道などの道徳を書いた紙を貼って信者にサービスをするようになったのです。
お寺で葬式をしたり墓地を管理したりすることも、信者に対する世間的なサービスの一環です。もともと仏教は、自分の心から物欲を消し去ることを目的とする宗教で、人間が死んだ後の遺体の処理などはしませんでした。奈良時代に日本は仏教を導入しましたが、当時の僧侶は葬式などしませんでした。
古代の日本人は、家族が亡くなると裏山に遺体を置いていたのです。魂となったご先祖様は、裏山から里で生活している子孫の様子を眺め、彼らを守っていたのです。先祖を祀るのは俗世で生きている者たちが自分たちの繁栄を願うためという面があり、本来は俗世に関わる仕事で、神道の縄張りのはずでした。
その後、魂の平穏という観点から、仏教が死者の面倒をみるようになったのです。このように、お寺が俗世の活動に次第に進出してきました。「神仏習合」というのは、仏教が現世に進出してきて、神道と仏教の境目があいまいになった現象のことを言います。
「神仏習合」は、同じ敷地にお寺と神社が同居しているとか、僧侶が神社の神主を兼ねているなどという現象や、両者の教義をいっしょくたにすることを指します。お寺の門前に処世訓を書いた「今日の言葉」などを貼るのは、この神仏習合の名残です。
江戸時代の日本人は、現実社会のことは神道で、法事や葬式など死後のことは仏教で行うという宗教の使い分けを行っていました。「葬式仏教」は今に始まったことではないのです。ところが明治初期に、このルールに反したことが行われました。
神仏習合の発想から、明治初期にFreedomという現実社会を律する考え方の訳語に、自由という仏教用語を使いました。そのために、現実社会に関する事柄を、社会的影響を考慮しない仏教の考え方によって判断する、という現象が起きました。
以下はひと続きのシリーズです。
5月17日 「企業は社会的公器」という考え方が怪しくなってきた
5月19日 陸奥宗光は、自由主義に基づいて富国強兵策を実践した
5月21日 『自由之理』を読んで、日本人はFreedomの考え方を知った
5月22日 民主主義の時代になると、多数派から少数派を守ることが重要になる
5月23日 ミルは、子供や未開人には自由はない、と主張している
5月24日 日本の独立には、文明国になること、Freedomを認めることが不可欠だった
5月26日 ミルは、Freedomの考え方とキリスト教の関連を断とうとした
5月27日 ミルは、キリスト教も他の宗教と同じく完全ではない、と考えた
5月28日 ミルは、キリスト教徒以外にもFreedomを認めた
5月29日 日本人が学んだのは、キリスト教を消したFreedomの考え方
5月31日 ルターは、カトリックの修道士になったが、教義に疑問を感じた
6月4日 心正しいキリスト教徒に限って、律法を破っても良い場合がある
6月5日 ルターの「律法からの自由」とミルのFreedomは同じ考え方である
6月7日 バーリンのように、積極的自由を否定するのがこれまでの主流だった
6月8日 明治初期の政府は、税金を投入して自由主義経済を育てた
6月11日 Freedomの誤解と大アジア主義の幻想の根底には、大乗仏教がある
6月12日 大乗仏教は、民族の違いなどなく、勝手気ままな態度が正しい、と教える
6月13日 経団連幹部は、自由主義経済を大乗仏教の教義で解釈している
6月14日 出家しているはずの僧侶が、俗世に関わるようになった
6月15日 Freedomを自由と訳したのは、一種の神仏習合
6月17日 キリスト教も神道も、神は自分の魂を人間に付着させて心を正しくする
6月18日 Freedomは、日本語に訳さないほうが良いかもしれない