「イエスを信じる」という第一の戒を守れば、他の「父母を敬え」とか「ウソをついてはならない」などの9つの戒を人間は容易に守ることができるから、もはや律法を気にする必要はなくなる、というのがルターの主張です。キリスト教徒は、律法から自由なのです。要するに、キリスト教の自由とは、「律法からの自由」ということです。
私は、「律法からの自由」という考え方が良く分からなかったので、親しくしていたプロテスタントの牧師にこの内容を質問しました。そうしたら彼は、「律法は守らなければならない」と答えました。律法を守らなければならないとしたら、「律法から自由だ」などと誤解を招くことを言うべきではありません。私はルターが何を言いたかったのか、分からなくなりました。
その後、私はディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945年)というルター派のプロテスタントの牧師の本を読みました。彼はヒットラーに反対してその暗殺計画に加担し、捕まって死刑になった男です。彼は次のように、「律法からの自由」を明快に説明しています。
キリスト教の神は人間に対して、「律法を守れ」ということと、「隣人を愛して助け合いなさい」と、二つのことを要求しています。ところが社会生活をしていると、この二つのどちらかを破らなければならない事態が生じます。
友人が悪人に殺されそうになって、あなたの家に「かくまってくれ」と逃げ込んできた時、あなたはどうすべきか、とボンヘッファーは問題を設定します。隣人愛の教えに従うのであれば、友人をかくまい、追ってきた悪人には「そのような者は我が家にいない」とウソをつかなければなりません。ところが律法は、ウソをつくことを禁じています。
その時にあなたがイエスを信じていて心が清く正しいのならば、イエスと同じく正しい判断を下せるはずだ、とボンヘッファーは言います。ウソをついてでも友人を助けるべきだと判断したのなら、あなたは律法を破ってもかまわない、というのです。
つまり、キリスト教が主張する「律法からの自由」というのは、律法を守ることが前提にあります。しかし、「イエスを信じて心が正しくなっているキリスト教徒に限っては、律法を破っても良いときがある」という考え方なのです。
以下はひと続きのシリーズです。
5月17日 「企業は社会的公器」という考え方が怪しくなってきた
5月19日 陸奥宗光は、自由主義に基づいて富国強兵策を実践した
5月21日 『自由之理』を読んで、日本人はFreedomの考え方を知った
5月22日 民主主義の時代になると、多数派から少数派を守ることが重要になる
5月23日 ミルは、子供や未開人には自由はない、と主張している
5月24日 日本の独立には、文明国になること、Freedomを認めることが不可欠だった
5月26日 ミルは、Freedomの考え方とキリスト教の関連を断とうとした
5月27日 ミルは、キリスト教も他の宗教と同じく完全ではない、と考えた
5月28日 ミルは、キリスト教徒以外にもFreedomを認めた
5月29日 日本人が学んだのは、キリスト教を消したFreedomの考え方
5月31日 ルターは、カトリックの修道士になったが、教義に疑問を感じた
6月4日 心正しいキリスト教徒に限って、律法を破っても良い場合がある
6月5日 ルターの「律法からの自由」とミルのFreedomは同じ考え方である
6月7日 バーリンのように、積極的自由を否定するのがこれまでの主流だった
6月8日 明治初期の政府は、税金を投入して自由主義経済を育てた
6月11日 Freedomの誤解と大アジア主義の幻想の根底には、大乗仏教がある
6月12日 大乗仏教は、民族の違いなどなく、勝手気ままな態度が正しい、と教える
6月13日 経団連幹部は、自由主義経済を大乗仏教の教義で解釈している
6月14日 出家しているはずの僧侶が、俗世に関わるようになった
6月15日 Freedomを自由と訳したのは、一種の神仏習合
6月17日 キリスト教も神道も、神は自分の魂を人間に付着させて心を正しくする
6月18日 Freedomは、日本語に訳さないほうが良いかもしれない