李志綏(リ・チスイ)著の『毛沢東の私生活』(1994年出版)を読みました。毛沢東が文化大革命を始めたのは、私が高校生になったぐらいの時でした。もちろん当時の私は、文化大革命が何かを理解できるはずがなく、「文化」という言葉と「革命」が結びつかず、「何か変なことが支那で起きているぞ」と思ったぐらいでした。
当時の日本の新聞やテレビは支那で起きていることの本質を伝えず(今でもそうですが)、毛沢東を好意的に伝えていたので、私たち高校生も毛沢東に関して悪い印象を持っていませんでした。高校の秋の運動会で、私のクラスは「毛沢東と紅衛兵」を演じることになり、私は毛沢東に扮してリヤカーに乗って運動場を一周しました。
その後、毛沢東や支那共産党のことを日本人も徐々に分かってきて、なにやら胡散臭い印象を持つまでになりました。毛沢東が支那の歴代の皇帝さながらに大勢の女を抱えていたことは、今や世界中の多くの人の常識になっています。
従ってこの本を読む前は、「どうせ、毛沢東に関する下ネタのスキャンダルが書かれているのだろう」くらいに考え、大して期待をしていなかったのです。ところが読み始めたら止まらず、上下二巻900ページを一気に読んでしまいました。面白かったというよりも、支那人の発想法・ものの考え方・人間への接し方について、大いに勉強になりました。
著者の李志綏(1919~1995年)は、五代続いた医者の家系にうまれました。清朝の末期の西太后が頑張っていた時代に、曾祖父は名医という評判だったので、安徽省から宮廷の侍医にさし出されました。
そして西太后が同治帝を出産するときに立会い、後にはこの皇帝の侍医になりました。同治帝はよく平民に変装して宮殿を抜け出して娼家に行っていたため、梅毒にかかりました。曾祖父がこの診断結果を西太后に報告したところ、彼女は激怒してこの診断を認めず、あくまで「疱瘡」として治療することを命じました。
結局、同治帝は若死にし(19歳)、曾祖父は位階を引き下げられてしまいました。彼は「決して宮仕えしてはならない」という遺訓を子孫に残しました。曾祖父は降格されただけで済みましたが、今の支那の共産党支配下だったら、殺されるのでないでしょうか。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない