支那人の行動原理の基本は、人間関係です。支那共産党の最高幹部や毛沢東の側近たちの今の地位は、毛沢東との関係によって得たものです。毛沢東が亡くなれば、その環境が激変します。従って彼らは、毛沢東の健康状態に異常な関心を寄せていました。
毛沢東(1893~1976年)が老齢で死にかかっているとき(83歳)、その看護体制は異常なほどでした。24人の看護婦と16人の医者が3交代の24時間体制を敷いていました。その他に、4人の支那共産党中央政治局員が二交代の24時間体制で詰めていました。
支那共産党の中央政治局員は、現在25人います。その上位7人がチャイナセブンと言われる政治局常務委員で、そのトップが習近平です。つまり中央政治局員というのは支那の最高幹部であり、日本の各省大臣よりはるかに強い権力を持っています。
そのうちの4人が、毛沢東の病室の前に貼りついて、臨終の状態を見守っていたわけです。彼らは医学に関しては何も知りませんから、治療の役には立ちません。彼らは、毛沢東の殺害とか遺言(自分の死後の幹部の人事への指示)などの政治的な事件を監視していたのです。あるいは、毛沢東が死んだ直後に起きるクーデターなどを、警戒していたのかもしれません。
毛沢東の死去という事実自体が非常に大きな政治的事件ですから、最高幹部や側近たちはその事件によって自分が不利にならないように警戒していました。中でも、自分の判断ミスで毛沢東が死んだという責任を負わないように最大の注意を払っていました。
医師団が何かの治療法を提案すると、最高幹部や側近たちはその治療法が毛沢東の死期を早めるのではないかと疑いました。そのような事態になったら、その治療法に賛成した自分の身が危ないからです。そのために治療法を巡って会議が開かれました。その治療法が承認されても、今度は毛沢東の了解を取り付けなければなりませんでした。
毛沢東は死ぬ直前まで意識がしっかりしていて自分が納得する治療しか受けなかったのです。ところが言語不明瞭になっていて、張玉鳳という女だけが彼と意思疎通できたのです。そこで張玉鳳というただの毛沢東の愛人の一人というだけの女の了解を取らなければなりませんでした。周恩来などの最高幹部が張玉鳳の機嫌を取るという面白いことが起きたのです。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない