製鉄は、鉄鉱石とコークス(石炭)を溶鉱炉に投入し高い温度に熱してできますが、数千億円の資金と高い技術が必要です。そんなものを支那は持ち合わせていなかったので、毛沢東はそれを人民公社(集団化した村)にさせようとしました。
毛沢東は鉄を生産しようとしたのであって、それにはまず鉄鉱石と石炭という原材料を調達しなければなりません。しかし、ほとんどの村では鉄鉱石も石炭も採れません。貧弱な設備で鉄が作れるかという技術的問題以前に、原材料の入手ができません。
しかし、「偉大なる指導者である毛沢東主席」の指示は実行されなければなりません。そこで田舎の村々では、周囲から薪を集めてきて、鍋釜や農機具などの鉄製品を家から持ち出し、溶解炉で溶かして鉄の塊を作りました。それぞれの用途があるものを潰して、使い物にならない鉄の塊に変えたわけです。
支那の村々は、毛沢東の意図と違うことをやったわけです。そもそも金も技術も原材料もない田舎の村に製鉄をさせようと考えた段階で、毛沢東はどうかしています。そんなことは、少し頭の回る者なら誰でも分かるはずです。しかし、そのような警告を毛沢東にしたわずかな最高幹部は首になりました。
ここに支那人の特徴が出ています。警告することにより仲間である支那人を助けようという気がないのです。Freedomや誠は、「仲間同士で助け合おう。そのためには社会的な約束事に反しても致し方がない」という考え方です。この考えが、社会を繁栄させ安定させました。ところが支那の最高幹部や側近たちは、毛沢東の怒りを買う恐れのある警告をしようとせず、自分の身の安全を最優先にしたのです。
村人たちは、村の真ん中に貧弱な溶解炉を作り、鉄の塊をこしらえました。この作業に多くの人手を要したために、農業がおろそかになってしまい、収穫が減りました。またスズメが穀物を食べるということから、スズメ退治を大規模にやりましたが、本当は、スズメは害虫を食べる益鳥なのです。スズメがいなくなったために害虫が大発生し、さらに収穫が減りました。
ところが幹部たちは事実を報告して毛沢東の怒りを買うことを恐れ、大豊作だ、とウソの報告をしました。豊作なら余った食料を輸出に回せます。そのために実際は食料不足なのに、倉庫の穀物を輸出しました。その結果、およそ5000万人が餓死しました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない