毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった

フー・ツォン(傅聰 1934~ )という支那人のピアニストがいます。彼が弾くショパンは非常に高く評価されていますが、私も彼の弾くショパンのノクターンが大好きです。

彼の父親は翻訳家・文学者で、紅衛兵が最も毛嫌いしそうなインテリです。1953年、彼が19歳のときにワルシャワ音楽院に留学してショパン・コンクールで賞をとったりしたあと、ロンドンに住み着いて演奏活動を開始しました。

彼が活躍し始めた1966年に文化大革命が始まりました。彼にも、支那に戻り田舎で農作業をして思想改造をしろという命令が来ました。それに従ったらいつピアニストの生活に戻れるか分からないので、彼は命令を拒否して亡命しました。

その結果、上海に住んでいた彼の両親は紅衛兵に痛めつけられ、それに耐えきれずに自殺しました。彼の地元の上海音楽院では、紅衛兵の集団的な糾弾によって17人の教員が自殺したということです。他にも似たようなすさまじいインテリいじめが、この当時行われました。文化大革命全体では、1000~2000万人が亡くなったと推測されます。

文化大革命の10年ぐらい前にも、大躍進運動の失敗により5000万人が餓死しています。合わせるとこの時期に政治的な原因で死んだ支那人はおよそ6000~7000万人で、総人口の1割になります。どちらも毛沢東の指示によって引き起こされました。

毛沢東が原爆を開発しようとした時、「そんなことをしたらソ連やアメリカなど支那を敵視する国に原爆を落とされて支那人の半分が殺されてしまう」という反対意見がありました。これに対して毛沢東は、「支那人は繁殖力が強いから、生き残った半分がまた増える。」と言いました。

支那の王朝末期には内乱が起き、半数ぐらいの支那人が死ぬのは当たり前でした。後漢末に6000万人あった人口は、三国史の時代には800万人弱になっていました。実に七分の一以下です。古典通の毛沢東にとって、人口の半分が死ぬのは当たり前のことだったのです。

以下はひと続きのシリーズです。

3月1日 『毛沢東の私生活』を読みました

3月2日 『毛沢東の私生活』の著者は、特異な育ち方をした

3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた

3月4日 李志綏はやはり、その出自から思想的に疑われていた

3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった

3月6日 毛沢東は人たらしである

3月7日 毛沢東は、相手の弱点を握って服従させた

3月8日 毛沢東が江青を堕落させた

3月9日 晩年の毛沢東は、パラノイアだった

3月10日 毛沢東は、他人の苦しみを見ても平然としていた

3月11日 支那人は人間関係がすべて

3月12日 毛沢東の死は、政治的な大事件だった

3月13日 毛沢東の女たち

3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた

3月15日 大躍進運動が失敗し、5000万人が餓死した

3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ

3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした

3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった

3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った

3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした

3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした

3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった

3月23日 支那人は今でも皇帝が大好きである

3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた

3月25日 皇帝制度は、支那人にとって良い制度ではない

3月26日 皇帝制度があるから、大勢の支那人が死ぬ

3月27日 習近平は、党・国家・軍をすべて押さえた

3月28日 支那人は、習近平皇帝を望んでいるかもしれない

3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない

3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する

3月31日 支那は好戦的である

4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない

4月2日 習近平は毛並みが良い

4月3日 習近平は、農民の心をつかんだ

4月4日 支那人には、他人どうしが助け合う考え方がない

4月5日 儒教は、他人どうし助け合いなさい、などとは言っていない

4月6日 支那人は他人が苦しんでいるのを見ても、さして心を痛めない

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