共産党の最高幹部の中で毛沢東に批判的だったのが、劉少奇と鄧小平でした。彼らは毛沢東が大躍進運動で大失敗したのを見て、毛沢東を野放しにしたら支那が潰れると思ったのです。毛沢東の方も、この二人を目の敵にしました。
毛沢東は、「四人組」などを使って二人を抹殺しようとしました。李志綏は、劉少奇と妻の王光美の二人が第8341部隊の下級将校や紅衛兵によって囲まれているのを目撃しました。二人は群衆の真ん中に立たされ、殴られ、髪の毛を掴まれて引きずり回されていました。劉少奇のシャツは引き裂かれて肌がはだけ、ボタンがちぎれていました。
鄧小平と妻の卓琳の方は、周囲から罵声を浴びせられてはいましたが、殴られてはいませんでした。毛沢東は、鄧小平に関しては懲らしめるだけで、また後から使おうとしていました。鄧小平はまだ若く、実務的な才能があり、殺すのは惜しかったからです。第8341部隊の下級将校は、毛沢東の意向を承知していて、鄧小平には手加減を加えたのです。
劉少奇は投獄され、獄中で病気治療を受けずに亡くなりました。鄧小平の方は投獄されず、田舎の農村に追放され過酷な扱いを受けただけで済みました。鄧小平は後に復活して「改革開放」政策を実施して、支那を経済的に復活させたことは、みなさんもご承知だと思います。
鄧小平がやった事は、毛沢東のやった共産主義経済政策をひっくり返しただけで、特別なことをしたわけではありません。
毛沢東は、劉少奇と鄧小平を失脚させて、林彪を後継者とすることに決めました。そして1969年の共産党の党大会は、林彪を「毛沢東の親しい戦友かつ後継者」に指定しました。
毛沢東の主治医である李志綏は林彪を診察したことがあるのですが、精神的にも肉体的にも弱い男だと感じた、と書いています。彼は英雄的な軍人だと一般に思われていたのですが、実際は違うようです。確かに写真を見てもどことなく気弱そうで、とても名将には見えません。
林彪
毛沢東は自分の私生児である華国鋒に将来的に跡を継がせようと考えていたので、それまでのつなぎには小者の林彪が良いと考えていたのかもしれません。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない