文化大革命のとき、毛沢東は自分に反対する共産党幹部を失脚させようとしました。大躍進運動の失敗で毛沢東の権威が揺らぎ共産党内で毛沢東に対する批判が高まったので、それに対抗するためでした。また、「共産党幹部が現在の地位に安住して反革命的になったので、彼らを思想的に改造する」という共産主義の思想的背景もありました。
全国各地で、既存秩序を守ろうとする共産党組織とそれを破壊しようとする造反派が激しく争っていました。毛沢東は造反派を応援しようとして、「人民大衆・農民・学生に軍事訓練を行え」という指示を人民解放軍に出しました。
なお、普通の国の軍隊は国民と国土をまもるためにありますが、支那の軍隊(人民解放軍)は、支那共産党を守るための軍隊です。従って、自国民を攻撃することも、支那の法律上は違法ではありません。
毛沢東は、支那共産党のトップとして人民解放軍に命令しました。その内容は、共産党の腐敗幹部をやっつけるために、造反派の連中に軍事訓練をせよ、ということです。つまり、「共産党の幹部たちは、本来のあるべき共産党の敵である」と宣言したわけです。
毛沢東は共産党幹部をやっつけるために、第8341部隊(党中央警備団)という中南海に住んでいる最高幹部を守る部隊をも使いました。第8341部隊を主要な工場に派遣して工場の幹部を威圧し、造反派を助けようとしたのです。そしてその部隊長と毛沢東との間の連絡役に、主治医の李志綏を使いました。
李志綏が、第8341部隊が占拠している工場に出向いたところ、造反派の幹部は李志綏を壇上に立たせ、工場の労働者たちに紹介しました。李志綏が毛沢東の主治医であることを知った労働者たちは、「偉大な毛沢東主席が我々を支持して下さる」と感激し、意気が大いに上がりました。毛沢東はこのようにして、李志綏を政治的な手駒として使ったのです。
李志綏は単なる毛沢東の主治医で、組織的には政治的な役割はありません。しかし支那ではすべてが人間関係で動き、組織は関係ないのです。毛沢東は李志綏を自分の手駒とみなしていました。そしてたまたま医者でもあった、というだけのことなのです。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない