「朝貢」というのは、支那の皇帝に手土産を持っていくという意味です。支那の国内で皇帝に仕えていた家来が皇帝に会うときに手土産を奉ることもあるし、外国の王が支那の皇帝に使いを送り、その使いが皇帝に会うときに、手土産を渡すこともあります。
支那の皇帝に手土産を贈ることが、そのまま臣従を誓うことにはなりません。こんなことは当たり前で、どの民族も他人を訪問するときは手土産を持っていきます。ところが敗戦後に日本の学者が、「朝貢には、支那の皇帝に臣従を誓うという意味がある」とおかしなことを言いだしました。
「朝貢」と「冊封」を区別しなければなりません。冊封というのは、支那の皇帝が外国の君主を国王に任命することです。朝鮮の王はみな、支那の皇帝に冊封されていました。初代李氏朝鮮国王の李成桂は冊封を受ける時に、「朝鮮」という国名をも明の皇帝に決めてもらいました。なお、「鮮」というのは「少ない」という意味なので、朝鮮とは「朝貢する手土産が少ない国」という意味です。
古代日本の君主も冊封されていました。例えば、卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に冊封されました。しかし、7世紀になって日本の天皇陛下は冊封を拒否しました。そもそも「天皇」という称号は「皇帝」と同格なので、支那の皇帝がこのような称号を被冊封国に許すはずがないのです。
支那の皇帝は、外国の君主の使いが皇帝に挨拶することを大歓迎しました。「こんなに遠い国の使いが、皇帝陛下の徳と力を慕って挨拶に来たぞ」と、家来や民に向かって宣伝できるからです。これで国内の潜在的なライバルに差をつけられます。
外国からの使いが支那の国境に到着すると、支那側は使いを豪華な輿に乗せ、大勢のお供をそろえて大行列を組ませ、ドラを鳴らして、首都までの道中を練り歩きました。途中の旅費はもちろん支那側の負担です。
外国の使いが皇帝に朝貢すると、皇帝はその数倍の価値のある返礼品を贈りました。また来てほしいからです。外国からすれば、朝貢は非常に有利なビジネスだったのです。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない