皇帝が専制政治を行うことによって政治が腐敗し、王朝末期の内乱で人口の半分以上が死にました。皇帝制度は、支那人にとって決して良い制度ではありません。ところが石平先生は、「支那人は皇帝が大好きだ」と言っています。
王朝末期の内乱による苦しみがあまりに大きいために、群雄の争いに決着がついて新しい皇帝が誕生したとき、支那の農民たちは、「これで内乱が終わる」と歓喜するのです。この大きな喜びの余韻がその後も続き、支那人は皇帝が大好きです。その王朝の末期に内乱が起き、また大勢の支那人が死にます。支那の歴史はこの繰り返しです。
儒教では、皇帝のことを「天子」と言っていますが、これは天が指名した人物という意味です。慈しみ深い天の神様が、「お前が天下を治めよ」と指名した人物が皇帝ですから、彼は慈悲深い立派な人に違いないのです。「皇帝は道徳的に立派で、民を慈しむ存在である」という支那の伝統的な発想が支那人の頭に刷り込まれています。
支那では「君側の奸を除く」という言葉が良く使われます。「今の政治が悪いのは、奸悪な人物が皇帝の側近になっていて、皇帝の判断を誤らせているからである。皇帝ご自身は、道徳的に立派で慈悲深い方だから、奸悪なものを退治すればまた政治は良くなる」という考え方です。
毛沢東も、名称はどうであれ支那人にとってはまぎれもなく皇帝でした。しかも、親からその地位を相続した跡継ぎではなく、自ら王朝を切り開いて、長い間の苦しい内戦を終わらせた初代の天子だったのです。多くの支那人は、天子である毛沢東を本心から敬愛していました。若い女がダンスパーティーで毛沢東に声をかけられたら、それだけで舞い上がりました。
また支那人は、彼の言うことに従っていれば自分たちも幸せになれる、と信じていました。毛沢東が「鉄を生産せよ」と直接国民に語りかけたら、農民たちは、自宅から鉄製品を持ち出して溶かし、鉄の塊を作りました。
毛沢東が、「反革命分子が大勢いる。彼らの精神を叩き直せ」と命令したら、大勢の若者が共産党の幹部や知識人を反革命分子だと考え、大勢の前でつるし上げて自己批判させました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない