『毛沢東の私生活』の著者である李志綏の生い立ちを、昨日に続いて説明します。彼は子供の頃北京の大きな屋敷に住み、父も叔父も医者でした。父親はフランスに留学して医学を学んでいます。
彼は、フランス人の第二夫人を伴って帰国したために、第一夫人たる李志綏の母や李志綏自身との間がうまくいかず、妻子に暴力を振るったようです。また、彼は二人の妻以外に多くの女を作り、さらに国民党に入って蒋介石の高官になりました。
父以外の一族の多くはまじめな医者でした。叔父は河南省でチフスが流行ったときに支那人としては珍しく志願して現地で治療にあたり、チフスにかかって死にました。李志綏少年は父親を嫌い、他の一族のような立派な医者になろうと決意しました。
李志綏少年は、アメリカのメソジスト派伝道団が作った中学校に入り、英語で授業を受け、キリスト教を叩き込まれ、15歳で洗礼を受けました。父親が複数の妻や妾を抱えていることに反発したからかもしれません。
その頃、彼の腹違いの兄が上海の医大で勉強しており、そこで共産主義にかぶれて入党してしまいました。この兄の影響と、国民党の高官だった父親への嫌悪感から、彼は共産主義を良いものだと考えるようになり、毛沢東にあこがれるようになりました。
20歳のときに彼は、四川省の医大に入りました。ここはカナダの伝道団が創立し、プロテスタント系の宗派によって運営されている大学でした。さらにロックフェラー財団が金を出しアメリカ人が経営している医大に移りました。英語で授業を行うなど全てアメリカ式の教育だったので、ここを卒業したとき、ニューヨーク州立大学の卒業証書も授与されました。
医者になった李志綏はオーストラリアに行って開業をしていましたが、人種差別を経験してそこが嫌になりました。ちょうどその時に、支那共産党が国民党との内戦に勝って支那が統一されました。そこで彼は、支那に帰り、医療を通じて祖国に貢献したいと考えました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない