毛沢東の大勢の側近は互いに仲が悪く、しょっちゅうもめ事を起こしていました。ところが毛沢東は、彼らを仲良くさせようとはしませんでした。互いに争っていれば、毛沢東は仲裁役をすることができるので、自分の力が強化されます。ところが皆が仲良くして一致すれば、毛沢東の権力がその分減殺されるからです。
毛沢東は指示し命令するだけなので、時間がふんだんにありました。そういう時は、プールサイドの大きなベッドに寝そべって、支那の歴史書を読んでいました。支那の歴史は、お互いに相手を騙して蹴落とそうとする男たちばかりが出てきます。
毛沢東が支那の古典を好むのは、周囲の者たちを出す抜く方策のヒントを得る為でした。裏でなにかをこそこそすることが好きなので、毛沢東は側近グループがこそこそすることを容認していました。「魚は澄んだ水には住めない」というのが、毛沢東の口癖でした。
毛沢東は各国の元首や地方のボスなどから高価な物をふんだんに贈られていました。それは倉庫にまとめて保管されているのですが、そのうちに無くなってしまいました。毛沢東はそのような腐敗に気づいていながら放置していました。裏でこそこそすることが得意な者たちを必要としていたからでした。
また彼らの腐敗行為の事実を知ることによって、相手の弱みを握ることができるからです。自分が陰謀を好むので、毛沢東は他人も自分に対して陰謀を企んでいる、と絶えず疑っていました。
毛沢東が周囲に疑念を深めるにつれて、側近たちはますます熱心にご機嫌を取り結ぼうとしました。そういう側近の態度を見て、毛沢東はますます彼らを疑うという悪循環になりました。野生動物が天井裏で騒いでいるのを耳にすると陰謀が企まれていると勘違いして恐慌状態になり、その別荘から別の別荘に頻繁に移り住むようになりました。そして自分の秘書たちに、要人をスパイさせました。晩年の毛沢東はパラノイア(被害妄想狂)だったのです。
晩年期の毛沢東の世話係たちの最大の悪夢は、毛沢東の死を自分の責任にされるということでした。毛沢東の最後のお気に入りだった張玉鳳だけは、毛沢東と口論をしていました。彼を怒らせて死なせたという非難を恐れず、普通の人間として接していました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない