封建時代(殷王朝・周王朝)の支那では、諸侯が王の暴走を抑えていました。石平先生の調査によると、この当時全国的な規模の暴動はなく、社会は平穏で安定していました。愚かな諸侯はいたでしょうが、その被害は彼の狭い領土の中に限定されていました。
ところが秦の始皇帝は諸侯を攻め滅ぼし、地方に派遣した官僚を通じて、全土を彼が直接支配することにしました。独裁者である始皇帝の暴走を止められる者が誰もいないのです。側近が助言をすることはできますが、始皇帝がそれに耳を傾けなければ、それまでです。
始皇帝は、国土を統一した後、万里の長城を増改築し、大幹線道路を敷設し、阿房宮という壮麗な宮殿を建築し、大規模な軍隊を編成しました。そのために約300万人の男子が強制的に徴発されました。
当時の支那の総人口が2000万人ですから、子供と老人を除いた働ける男子は、600万人です。実にその半分が、農業などの生産現場から引き離なされたわけで、これでは社会がまともに機能しません。当然ながら大反乱が起き、秦王朝はわずか15年で崩壊しました。
なお日本も明治維新で封建制度を廃止し中央集権の制度に変えましたが、元の大名たちは東京で平穏に暮らしていました。この大名たちの家来が全国に150万人(戦闘可能な成人男子の武士は50万人)いて、彼らは元の主君の命令があれば反乱を起こしたはずです。元の大名が新政府の暴走を抑える役割を果たしました。
さらに明治半ばには国会が開設され、合法的に政府の行動をチェックしました。秦王朝時代の支那の郡県制度と明治維新後の日本の中央集権制度では、封建制度を廃止したという点では同じですが、その後の社会の仕組みが全く異なります。
秦王朝の崩壊を見て、支那人も郡県制度に大きな問題があることを理解しました。従って、次の漢王朝は、領土の一部に皇帝の一族や功臣を各地の王に封じるという、郡国制度(半分郡県制、半分封建制)を採用しました。
そうなると今度は、各地に封じられた王が皇帝に反乱を起こすようになりました。結局、郡県制も郡国制もそれぞれ一長一短があることが分かってきました。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない