毛沢東は基本的に健康なので、主治医など必要ありませんでした。そこで李志綏は病院で外科医として仕事をしたかったのですが、毛沢東は彼を手放そうとはしませんでした。そして彼に、政治的な問題についてかなり突っ込んだ内容の話をしていました。
周恩来、華国鋒、林彪などの最高幹部たちとも李志綏は、政治的な話をしています。また警視庁長官である汪東興などの高官も、李志綏に政治的なアドバイスをしていました。つまり、毛沢東もその周囲の最高幹部や高官たちも、李志綏を単なる主治医として扱っているのではなく、毛沢東派の幹部の一人として扱っていたのです。
毛沢東の妻である江青は、彼を自分のライバルと考えて攻撃を加えていました。私は何でこのようなことになるのか、最初は理解できませんでしたが、『毛沢東の私生活』を読み進めるにつれて、次第に分かってきました。
最高幹部も高官も、毛沢東の人的なつながりによって彼らの地位を保持しているのです。「自分は国家の組織図のどこに位置しているか」、などということはあまり意味がなく、毛沢東とどういう関係にあるか、の方がはるかに重要なのです。
李志綏は毛沢東に日常的に接しているので、彼に関する豊富な情報を持っています。だから最高幹部や高官たちは、李志綏を毛沢東の政治的部下でもあると理解していたのです。よく支那は「人治」の国だ、と言われていますが、こういうことだったのです。
毛沢東も、李志綏を自分の政治目的に使う気が満々でした。毛沢東を始め支那人は、人を信用しません。一時的に信用しても、絶えずその忠誠度をチェックします。文化大革命の最中、中南海を警護する部隊が、精華大学という名門大学を接収することになりました。李志綏はその接収に参加する義務はなかったのですが、大学が接収されるのを見たくて、紅衛兵に交じって大学に向かいました。
夜に大学に着いたとき、接収に反対する一団が爆弾を投げつけ、部隊に向かって投石しました。散々な目に遭った李志綏は明け方にボロボロになって中南海に帰ってきました。そうしたら毛沢東が満面の笑みを浮かべて彼を出迎え、「腹は減ったか。服を着替えろ」と世話を焼きました。李志綏は、「毛沢東が指示した文化大革命に参加したことにより、私は毛沢東の忠誠度テストにとりあえず合格した」と書いています。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない