鍋や釜を鉄の塊に変えるという愚かな作業を農民にさせ、食糧不足なのに穀物を輸出したため、支那全土が飢饉になりました。側近たちはこの失敗を毛沢東に隠していたのですが、ついに隠しきれなくなり、毛沢東も失敗を認め、鉄の塊を作る作業は中止になりました。
大躍進運動は失敗し5000万人が餓死しました。毛沢東は、「共産主義社会の実現は難しく、途中で失敗することもあるさ」という感じで、反省はしませんでした。しかし、党内では毛沢東を批判する声が高まってきました。その代表が劉少奇と鄧小平です。このままでは自分の地位が危ないと思って毛沢東がはじめたのが、文化大革命です。
当時、毛沢東(1893~1976年)の後継者と目されていた者は、劉少奇(1898~1969年)・鄧小平(1903~1997年)・林彪(1907~1971年)の3人でした。劉少奇と鄧小平を排除して林彪を後継者にし、自分の地位の保全を図ったわけです。
なお、周恩来(1898~1976年)は総務がうまいというだけで、国家の主導者にはふさわしくないと考えられていました。また、毛沢東は生前、華国鋒(1921~2008年)を可愛がって後継者にしようとも考えていました。
華国鋒はまだ若かったので、とりあえず林彪を後継者にし、後に華国鋒にバトンタッチさせようとしたらしいのです。しかし、彼には政治的才能がなく毛沢東の死後間もなく失脚しました。実は、彼は毛沢東の私生児でした。そういえば、二人の顔は似ています。
毛沢東
華国鋒
「北朝鮮は共産主義国家なのに、そのトップを世襲している。それに比べると毛沢東は、世襲をしないという共産主義の最後の一線は守った」と、毛沢東を評価する人がいます。しかし実際は、毛沢東は帝位の世襲に失敗しただけなのです。
毛沢東の長男の毛岸英(1922~1950年)は朝鮮戦争で戦死しました。次男の毛岸青(1923~2007年)は子供時代に国民党の警官に殴打されて、精神障害になりました。他にも三番目の妻である賀子珍とのあいだに3人の息子がいましたが、里子に出して行方不明になったり夭逝したりして、後継者にできなかったのです。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない