昨日までの二日間、『毛沢東の私生活』の著者である李志綏の青年期までを詳しく書いてきました。彼の生まれや育ち、さらにはキリスト教の信仰は反共産主義的でした。その一方で、彼のような高度な医学的知識を備えた人材を支那共産党は求めていました。
そこで帰国後の彼を支那共産党は注意深く観察して、その思想的背景も徹底的に調査しました。その結果、問題なかろうという判断が下ったのです。彼のような「労働者・農民の敵」がなぜ毛沢東の主治医になれたかを読者に納得してもらうためには、彼の生い立ちや育ちを説明する必要があったのです。
彼はアメリカ式の教育を受け、支那以外の世界にも知識があり、さらに複雑な人間関係を洞察する能力も備えていました。彼は、毛沢東やその周辺で起きたことを支那の伝統に捉われない視点で観察しました。だから、彼が書いた内容を、アメリカ人や日本人など外国人も理解できるのです。
彼自身は外科医として活躍したかったのにそれが叶わず、毛沢東の主治医をしていただけでした。毛沢東は基本的に健康なので、彼の医者としての仕事はほとんどなかったのです。曾祖父の遺訓もあって、彼は「宮仕え」を嫌がっていましたが、毛沢東に逆らうことはできず、22年間も嫌な役目を我慢していました。
毛沢東の死後(1976年)、彼はアメリカに移住し、そこで『毛沢東の私生活』を出版しました(1994年)。なお、この本は支那では発禁になっています。テレビのインタビューで「毛沢東についてもう一冊伝記を書く」と発言したところ、その2週間後に息子の家の風呂場で死んでいるのが発見されました。まあ、「死人に口なし」ということでしょう。
考えてみれば、彼のこの世での役目は、「毛沢東とはどういう人物だったのか」「支那人はどのような発想をするのか」「支那人は日本人やアメリカ人と非常に違った考え方をする」ということを広く世間に知らしめることでした。それを果たし終わった直後に殺されたわけで、我々は彼がやったことに対して感謝しなければなりません。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない