李志綏は、上流階級出身の自分が共産化した支那には場違いだということを深く考えていませんでした。共産党の幹部(共産党中央軍事委員会衛生部副部長の傅連瞕、日本で言えば厚生労働省の副大臣という感じ)が帰国を歓迎するという手紙を送ってきたこともあり、「支那は自分のような本格的に教育を受けた医師を本当に必要としているのだ」と思い、意気揚々として支那に帰ってきました。
帰国して1年間、李志綏は北京郊外にある診療所に勤務していましたが、そのあと中南海の診療所の所長になり、共産党の最高幹部の健康管理をすることになりました。中南海は、紫禁城及び天安門のすぐそばにある一角で、明朝や清朝時代は宮殿でした。今は支那共産党の最高幹部の邸宅と事務所があり、日本で言えば首相官邸のある永田町にあたります。
帰国後の一年間、支那共産党は李志綏をじっと観察していて、特に問題はないと判断したわけです。そこで彼は自分のキャリアを一歩進めるために共産党に入党する手続きをとりましたが、経歴や家族に疑惑が多く、なかなか認められませんでした。
李志綏自身がインターン時代に国民党政府軍の軍医をしていました。父は国民党の幹部だったし、妻(支那人)はかつてアメリカ軍の空軍基地に勤めていました。李志綏はなんとか自分の共産党に対する忠誠心を認めてもらおうと、ちょうど勃発した朝鮮戦争への従軍を願い出ましたが、それも認められませんでした。
結局、彼が共産党員になるまで2年間もかかりました。医者としての専門能力は買われましたが、思想的に疑わしい存在で、支那の永田町たる中南海で浮き上がっていたのです。
李志綏が中南海の診療所長になって4年後の1954年、共産党中央弁公庁警衛局主任(日本で言えば警視庁長官にあたる)である汪東興の自宅兼事務所に呼ばれました。
この自宅兼事務所は中南海の中にあり、汪の執務室・居室・食堂・寝室を兼ねただだっ広い部屋でした。日本の警視庁長官だったら毎朝役所に出勤し大勢の部下と一緒に仕事をしますが、支那の高官は自宅で仕事をするのです。必要なら部下を自宅に呼びつけて指示するというスタイルで、仕事のやり方がきわめて荒っぽいです。最高幹部が中南海という一か所に固まって住んでいるのは、みんな自宅で仕事をするからです。
以下はひと続きのシリーズです。
3月3日 李志綏は、嫌々ながら毛沢東の主治医を22年間つとめた
3月5日 毛沢東は、自分の主治医を選ぶのに、他人任せにしなかった
3月14日 毛沢東は、支那がまっとうな共産主義国家であることを証明するために、大躍進運動を始めた
3月16日 大躍進運動の失敗により、毛沢東の権力基盤が揺らいだ
3月17日 毛沢東は文化大革命を始めて、自分の権力を奪還しようとした
3月18日 文化大革命により、多くの人が死に、若者は教育を受けなかった
3月19日 毛沢東は、共産党の官僚たちをやっつけるために軍隊も使った
3月20日 毛沢東は劉少奇と鄧小平を失脚させ、林彪を後継者にした
3月21日 毛沢東と後継者の林彪は、互いに相手を疑って殺そうとした
3月22日 毛沢東にとっては、国民の半分が死ぬのは当たり前のことだった
3月24日 秦は諸侯を滅ぼして全土を直轄支配したが、すぐに滅びた
3月29日 朝貢は手土産を贈るという意味で、臣従を意味しない
3月30日 支那の皇帝は、周辺国からなめられたら、武力侵攻する
4月1日 支那の尖閣列島侵略に備えて、憲法問題を処理しておかなければならない